般若面

 滝の如き雨が降る、灯りのない夜だった。
 数回呼び鈴を鳴らした後、扉を破って侵入して来たのは少女である。少年が闇から伺うに、打刀を携えた彼女は彼の見知った顔だ。赤く鮮やかな振袖を纏い、袖を襷でたくし上げている。
 少年は短い間思案した後、板の間に掛けてあった面を手に取った。
 室内は血の匂いが充満している。玄関から続く廊下に赤い足跡が並んでおり、リビングルームの扉と階段の手すりにも赤黒い血がべっとりとこびり付いていた。赤い足跡は玄関からすぐのリビングルームの扉から現れ、階段へと続いている。
 少女は迷わず二階へと向かった。
 寝室に死体が一つ。引き裂かれた首元は、まるで獣に食い破られたかのように見えた。死体はまだ若い男性のものである。殺されてからそう時間は経っていない。死体の検分を済ませると、少女は周囲を見回した。
 人の気配はない。だが、まだ犯人は近くに潜んでいると少女は悟った。
 二階にめぼしいものが無いと判ると、再び赤い足跡の残る階段を下りた。よく見ると足跡は少なくとも二人分以上あり、それも廊下と階段を何度も行き来している様だった。ただし、薄く擦れた足跡は階段を下っている。これが一番新しい足取りだろう。まず最初に気がつくべきだった。
 擦れた足跡は血糊の付いたリビングルームの扉へ続く。
 狭いリビングルームには、赤ん坊の死体が一つ転がっていた。これも首元を食い破られている。上で見た死体と違うのは、これが明らかに人間の歯形であるということである。鈍い人の歯で摺り合わせる様にして噛み千切った形。先程の傷口は、鋭い牙を持った獣の噛み跡に似ていた。
 つまり二つの死体は下手人が違うのだ。上の死体は、同じ手口で犯行が行われたと見せかけるために、あのような殺し方をしたのだろう。恐らく男の咽は素手で引き千切られたのだ。
 その際に飛び散った血液を、犯人は頭から浴びているはずである。不用意に外に出て通行人にでも見られたならば、明らかに異常と見られるだろう。犯人はどこかで血を洗い流す必要がある。外は雨だが、それで洗い流されると楽観的に考える筈もない。手口を似せようと考える程度の脳はあるのだ。
 だが、二階に有った浴室を使用した形跡は無かった。やはり犯人は返り血を浴びた姿のままで、この屋敷に留まっていると見るのが正しい。
 足跡を辿る。
 この一軒家は少し変わった構造になっており、洋風のリビングルームの奥は壁一面が襖になっていた。模様の少ない襖の真ん中の引手には、やはり血がこびり付いていた。
 この先に追っていた人物がいる。息づかいを感じて、少女の刀が煌めいた。
 鞘から抜いて一閃。斜めに切り裂かれた襖が、音を立てて崩れる。
 暗い座敷の中央に、独り立っていた。その奥には物言わぬ女。
「般若面か!」
 糸色倫は叫び声を上げた。抜いた刀を振り上げ、猛然と飛びかかる。面の人物は一歩引いて一太刀目を交わすと、続いて横に薙いだ二つめのかます切っ先を手首で受け流した。
 響いた音は、骨ではなく堅い金属の軋む音だ。何やら手首に仕込んである。
「驚いたぞ。近頃評判の鬼殺しが、こんなに若いとはな」
 衣服は学生服、顔には般若の面、全身に血飛沫、怪異な出で立ちの少年は黙している。少女とそう変わらぬ年齢の少年は、果たして昼間は同級生である、久藤准だった。
 白木を彫って形作られた般若の面の、暗く開いた二つの眼球と深く裂けた口元の奥に、薄く少年の面が覗いている。だが倫にはその正体は見えない。気にもならなかった。今すぐ切り捨ててしまえると思っていたからだ。
 倫は再び打刀を打った。しかし何を思うのか、般若面は右手左手で刀を受け流しはするものの、反撃には出ない。狭い室内に血でぬかるむ足下、次第に冷静さを失って行くのは少女の方だった。
 何故打ち返さないのか。彼の両手が黒く濡れているのは、自らの手で殺しを行ったからに他ならない。成人男性の首を引き千切った上肢である。その手は白刃をいなしながらも、反撃の機会を窺っている。面の奥で呼吸が乱れているのも判る。
 だが、彼が読もうと躍起になっているのは、倫の太刀筋では無い。
 影の奥の暗い双眼が見通そうと挑んでいるのは、倫の意図そのものだ。覗き込まれる方、少女は後ろ暗い自らの妄執にこそ、苛立ちを感じ始めた。
「なぜ、反撃しない!」
 焦燥に駆られて、倫が一層の力を込めて刀を振るった。そのかます切っ先を後ろに飛んでかわした際、准は畳の上に流れた血に足を取られた。
 僅かに上体が揺らぐ。それを隙と見た倫は、心の蔵目掛けて刀を勢いよく突き出した。
「がっ」
 意図せず咽から擦れた叫声が溢れ出た。体にめり込む冷たい鉄の感触に、重すぎる不覚。皮を裂き骨を打ち肉を断ち、蔵を貫いた刃諸共、背後の壁に縫いつけられた。
 刃を伝って倫の手にも温い体液が触れた。
「ほ、ほ、ほ、噂ほどにもない」
 その勝ち誇った嘲笑も喘ぎ混じり、息が上がっているのは倫も同じだった。全身のシナプスが狂ったようにシグナル伝達を行っている。
 それは仇敵を打った歓びではなく、今一瞬の攻防が、自身を繋ぐ永遠の鎖と同じ形であると感じ取ったからに他ならない。勿論、彼女自身が明らかな形でそれを認識しているわけではない。
 しかし彼女は体の震えが治まるまで、明確な思考は何一つ巡らすことができなかった。
 生臭い室内に娘の吐息が響く。少女は有らざる永遠を感じた。それと真逆に、心臓の破裂した体はほんの一瞬としてしか感じていなかった。
 やがて動き出した倫は、准の体から刀を引き抜いた。真っ赤な血が舞うと共に、肉体は崩れ落ちた。
「どれ、顔を見せて見ろ」
 と、倫は屈んで遺体の後頭部を掴んで持ち上げた。白木の面が黒く染まっている。
 刀を置き、空いた手で彼の面に触れた瞬間である。
「何だ、てめえは鬼じゃねぇのかよ」
 生きている! 面の奥で瞳が揺らぎ、少年が嘯いた。
 ほんの一瞬だが、倫の全身がわなないた。次いで置いた刀に腕を伸ばしたが、それよりも先に般若面の拳が刀を弾き飛ばし、そうかと思うと、彼自身の心臓から溢れた血溜まりから素早く飛び起きた。
「わかんねーな。鬼じゃねえのに、何でおれを切ろうとする?」
 血染めの面が睨みを利かせる。不覚を取ったのは倫の方だった。僅かでも情報を与えてしまったのだ。少なくとも、自分が鬼ではないことは知られてしまった。己が無謀を行っていることは理解していた。だからこそ事は完璧に運びたかった。自身の保身のためではなく、深い情愛の故あって。
 だがここで、綻びだ。
 二本角、憤怒の表情の奥と睨み合い、倫は先程までよりももっと強い焦燥に襲われた。怒りと似ている。
「なぜ私が鬼でないと判る」
「そりゃ、血に興味を示さないからさ」
 倫はそろそろと刀の方へ腕を伸ばし、静かに刀身に触れた。同時に、相手の姿を目に焼き付けようと睨み続ける。般若面、その風体と声が、どこかで見たのでは聞いたのではと記憶の底を掠める。だが上手く結びつかない。
「それだけか」
 倫は再び刀を取った。柄を握る手が感情のままに力がこもる。
 たっぷり一呼吸の沈黙。
「鬼を庇うってのか?」
 勢いよく倫の刀が払われた。眼前の少年に向かって、首を落とす狙いを定めて――だが、刃は首には至らない。それどころか、ほんの少し力を込めたところで、その勢いを打ち殺された。
 准の片手が刃を直に握っている。手の腹に刃先が中り、僅かに切れて血が滴っているが、押そうが引こうがびくともしない。倫が苛立ち力を込めようが、腹を握られた刀は身動きを封じられている。
 しかし准はそれで反撃を起こすわけでもなく、ただ刀身を握っているだけである。まるでせせら笑うかのように。
 少なくとも倫にはそう取れた。
「なぜ反撃しない!」先程と同じ事を問う。
 一度目は黙秘した般若面が、今度は口を利いた。
「鬼じゃないってんなら、殺せねーよ」
 倫の頭にかっと血が上った。
「嘗めるな!」
 刀が動いた。熱く逆上せた頭で、常時以上の力を一瞬爆発させたのだ。
 溜まらず准の手が離れた。
 倫は刀を高く振り上げ、打ち下ろす。准は転がる様にして攻撃を既の所でかわすと、そのまま和室の障子と硝子を蹴り破り、外へと飛び出した。硝子の割れるけたたましい音が室内に響く。倫も追った。
 外は雨。視界が酷く悪い。暗い庭に雨音が轟に打ち付ける。
 庭を取り囲む生け垣の塀は低く、この雨が無ければ路上から異様な騒ぎは明らかに見て取れただろう。
「おのれ、般若面! 逃がすものか!」
 倫が叫んだのとほぼ同時に、礫が刀を握る拳に中った。
「あっ」
 と、短い悲鳴を上げる間に、二つ、三つと雨霰に骨を砕かんばかりの石礫が飛んでくる。堪えきれず刀を取り落とした。
「印字打ちか。小癪な真似を」
 礫の飛んで来た方角で、雨水を跳ね飛ばす音が聞こえた。
 生け垣を跳び越え、暗い闇の中に黒い背中が消えていく。雨に血を洗い流しながら、怪異な姿のままに。
 追えはしない。例え走り出しても、倫には追いつけないだろう。然う然う襤褸を出す人物とは思えない。
 熱を出して痛む掌をさすりながら、倫は背後の家に視線を向けた。証拠はたっぷりと残されているのだ、すぐに正体を暴いてやる。
「鬼殺し、般若面……。不死身の化け物め」
 滝の如き雨が呟きを飲み込んだ。

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