小角

 電話が鳴った。デスクに備え付けてある業務用の電話ではなく、自分のプライベートな携帯電話の方だった。
「は? いや、その辺りは管轄外なので……」
「どうしても無理そうですか?」
 十時半。夜が深くなりつつある。相手は中々引き下がらなかった。
「困ったわ、今から出かけたら終電が無くなっちゃう」
 電話の向こうで、女は独り語ちた。
「足が目当てってことですか」
「あら、そんなつもりじゃ。始末の方も私一人じゃ時間がかかってしまいますから。頼りにしてますわ、先生」
「それは有り難いんですが、池袋はともかくとして練馬辺りは私の管轄外ですよ。他を頼って下さい。ほら、先生の同僚にも居るでしょう」
「甚六先生ですか? でもあの方、もうお歳だから。こんな時間にたたき起こすなんて申し訳なくて。それに、あの方を後始末だけにお呼びするってのも……」
「つまり僕ならたたき起こして大丈夫だと」
「お若いですものね。まだ寝てらしてなかったでしょう?」
「いや、僕ももう年ですよ。明日も早いんで、今から寝ようと思ってた所です」
「明日は診察お休みでしょ」
「よくご存じですね」
「お忘れですか? 私も時々、利用させて頂いてますわ、糸色先生。待ち時間無しに腕の良い先生に見て貰えるんですもの」
「嫌味ですか」
「誉めたつもりですけど」
 埒があかない。いくら智恵先生の頼みでも、今日はあまり無理をしたくなかった。このところ少し体調が悪く、どうにも食欲が湧かない上、今も軽い頭痛に襲われていた。しかしそれを理由に持ち出すのは、多少情けなく思えて嫌だった。
「もしかして、あまり具合がよろしくないんですか?」
「別に、そんなことは」
「本当ですか? だってこの間は大喜びでいらっしゃったじゃないですか」
「ああ、あれは」あの時は腹が減っていた。「丁度暇を持てあましていて。とにかく、今日これからっていうのは無理ですよ」
「でしたら、明日の朝になりますね」
「は?」
「池袋の方は先生の管轄でしょう? 私は今から練馬に行ってきますから、そっちはお願いします」
「智恵先生だって池袋も担当なさってるじゃないですか。通り道でしょう、ついでに片付けてしまえば」
「それじゃ終電に間に合わなくなっちゃう」
 拗ねたように言う。しかし、何度か一緒に行動した時の彼女の手際の良さを思い出すと、時間が間に合わないなどという理由は不自然だ。
「お休みの日の早朝に後始末なんて嫌でしょう?」
 どうにかしておれを呼び出したいらしい。
 壁に吊された何の特徴もない丸い時計が、十時四十分を過ぎた辺りを指し示している。机の上に開いていたカルテを閉じた。頭痛の原因は、カルテに書かれた訳の判らないことを何とか解決しようと、永延と訳の判らないことを考えていたからかもしれない。カルテを書いたのは自分だ。
「判りました。車、出しますから、部屋で待っていて下さい」
「いいんですか? いつもありがとうございます。実はちょっとお訊ねしたい事があったんです」
「それは、電話ではいけませんか?」
「今、先生はお一人ですか?」
「一人ですよ。うちは入院施設もないんで、営業時間が終わったら看護婦の勤務も終わりです」
「とは言っても、電話じゃ証明できませんね」
 ふふ、と笑い声を残して電話が切れた。人を喰ったような感じだ。ということは、おれは喰われたのか?

「こんな深夜に、どうもすみません」と彼女は前置きしてから助手席に乗り込んだ。
「先に池袋で良いですか?」
「お願いします」
 彼女のマンションは小石川駅から少し離れた場所にあり、女性の一人暮らしとしては、まあ一般的な部屋だろう。勤務先の一つである高校からもさほど離れてはいないし、人通りの極端に少ない場所でもない。ただ、時々彼女の部屋の近くへ訪れると、どうしようもない嫌な空気を感じることがある。今日もそうだ。その嫌な空気というのが彼女が出しているような気がしてならない。彼女も一般に言うまともな人間ではないことだけは確かなわけだし。ひょっとしたら土地自体がそうなのかもしれないが。
「池袋のどの辺りですか」
「東池袋の駅、わかります? あの辺りの住宅街」
 そもそも彼らは何だってこんな時間に連絡をよこすんだろう。後を任される方の身にもなって欲しい。
「放って置いてもいいかと思ったんですけど、あの子達、今月はもう三件も不審事件を起こしてしまってますからね」
「三件?」
「月の初めに久藤君が一つ、半ば程に木津さんが一つ、それからこの間の練馬の人身事故も」
「ちょっと待って下さい。どれも初耳ですよ」
「あら。どれもニュースになってましたよ。驚くべきことじゃ、ないでしょう」
「まあ、そうですが」
 まさか隠されていたわけでは無いよな?
「そっちは新宿方面ですよ」
「え」
 慌ててハンドルを逆に切った。
 いや、待て。見落としていたのは三つの事件だけか? 六月上旬の殺人事件、大きなものは確か新聞で読んだ。一家三人惨殺事件のヤツか、他に何か。結構近所の事件だった。何故見落としていたんだ。警戒すべきじゃないか。それをやった久藤っていうのは誰だ。やはり弟の受け持ちの生徒だろうか。
 その次の事件は……。
「先生。先生、聞いてます?」
「え? あ、ちょっと待って下さい。道が思い出せなくて」
「大丈夫ですか? 連絡が有った場所、もうすぐですから」
「あ、それは良かった」
「良かった?」
「ええ、道に迷わなくて。所で何の話してましたっけ?」
「妹さんのお話」
「倫の?」
 糸色倫。今年十七になる、年の離れたおれの妹だ。今年、一つ上の兄の望を追いかけて上京し、望の務める学校に転入した。倫の転入した高校は、智恵先生がカウンセラーとして通う職場の一つでもある。
「あいつがどうかしましたか」
 跳ねっ返りでいたずら好きの性格だから、前の学校でも時々教師からの注意を受けていた。とは言っても、新聞沙汰になるような問題を起こすわけではなくて、「協調性無い」とかの評価を通信簿に書かれるぐらい。
 最近、親元を離れて生活するようになってから、前よりもはしゃいで回っている事が多い様だったが。
「学校生活に問題があるってわけじゃないんです。でも、前段階かもしれませんね」
 助手席に座るこの女性が、何を考えているのかよく判らない。僅かに首を動かして、こちらを見た。
「彼女、何を嗅ぎ回ってるのかしら?」
 倫が何かを調べている? そんなのは初耳だった。
「さあ、あれは何にでも首を突っ込みたがるから」
「本当にご存じ有りませんか?」
「ええ、全く。面倒じゃなければ良いんですけどね。いつもそうなんです、あのじゃじゃ馬は」
「そう」彼女は明らかに落胆した様子で呟いた。
 しかし、知らないものは知らないのだから致し方がない。
「話ってそれですか」
「ええ、それだけ」
 人に聞かれて困るような内容だっただろうか。しかし倫の調べている事っていうのが気に掛かる。何か裏があるな。
「先生、あの角を曲がって」
 車が言われた通りの道筋を辿ると、暗い路地の片隅に人が蹲っているのが見えた。
 車を止めて出てみると、血の匂いがぷんと漂っていた。
「随分と派手なやり方。甚六先生の教え方じゃないわ」
 確かに。頭をかち割られた不気味な物体に、食欲も湧かない。
 地べたには血溜まり、空気は湿っていた。
「また雨が降りそうですね。急ぎましょう」
「だけど、手間が省けますわ」
 彼女は手に白い手袋をはめ、道端の死体に近付いた。
 頭がグチャグチャに潰されているために人相は判らないが、体型からして被害者は四十ぐらいの男だろう。きっちりとしたスーツを着込んでいる。近くに鞄が転がっていた。一応鞄の中を改めると、書類と携帯電話、それと空の弁当箱が入っていた。まさに仕事帰りといった感じだ。家に帰れば家族が待っているのだろう。
 だが、死んでいる。
 住宅街に突如現れたそれは現実を喰って破る様な異常さを持っていた。見慣れたものではあるが、それでも死体を嫌悪する感情がおれの意識の中に産まれるのは、おれが未だ人間にしがみついているということなのだろうか。
「先生、手伝って頂けません?」
 彼女がこちらを振り返った時、死体の影が揺れ動いた。
「動かないで」
「え?」
 一、二、三、四、心音をなぞるように数を数える。日に褪せた書物の様な街灯が、ジッと音を立てて、瞬く。呼吸音が三つ。上着の内ポケットに入れていた武器をゆっくり取り出し、死体へ近付いた。
 影が飛ぶ!
 智恵先生へ飛びつこうとした影との間に割って入り、右手に握った刃物で影を切り上げた。
 短い悲鳴、真っ赤な飛沫が辺りに散らばる。地面に落ちたそれは、胸から肩へ向けてぱっくりと大きく開いた傷を見せた。首が有らぬ方向に曲がっている。
「せんせ、これ」
 弱い街灯に曝された影は、まだ五つぐらいの子供だった。
 おかしい。心臓を切り裂いたのはおれだ。そして首を折ったのは、件の子供達か? それにしても何故、首が折れて尚動いている。普通なら死んでいるはずだ。鬼憑きといえど、体は人間なのだから。
 口元と胸に体液を滴らせた鬼は未だ呻き声を上げ、この場から逃げようと地面を這った。
「止めを刺しましょう」
 智恵先生が囁いた。おれは何が何だか判らず、殆ど反射的に飛びかかり、その子供の首を落とした。
 幼い体に残されていた血液が、また道端へと飛び散った。
「あの子達、きちんと止めを刺してなかったんですね」
「いや、まさか」
 智恵先生には見えなかったのだろうか? 首は確かに横に向かって千切れんばかりに折れ曲がっていた。
「致死の傷でしたよ」
「あら、そう? 専門家がそう仰るのでしたら、そうなのかしら」
「見間違いでなければ」
 この状況で見間違うものか。心臓が痛むほどに脈打ち、脳は最上級に活性化している。だが首を切り落としてしまったのは失敗だった。今街灯の下で見るだけでは、首がどのような状態になっていたのか、確認出来ない。こうなっては持ち帰って解剖するしかないだろう。しかし確実に息の根を止める方法が他に思いつかなかった。
「ところで糸色先生。やっぱり頼りになりますね。これ、一体何なんです?」
 智恵先生の指が、刃物を握るおれの腕をなぞった。僅かに電気が走るような感覚を覚えたが、それよりも目の前の血の匂いが強烈だった。
「メスですよ。咄嗟に持ち出せる武器がこれしか無かったもので」
「職業病ですね」
「確かにそうかもしれません」
 血で曇った歯を見た。刃渡り五センチほどの、ごく一般的な手術用のメスだ。こんな適当な使い方をしていいような安いものではないが、実は一度手術に使用した後の使い捨てタイプを磨いで再利用している。これなら所持していても、取り合えずは不自然ではない。
「さ、後片付け、しましょ」
 後部座席に置いていた真新しいタオルを智恵先生に手渡された。服に付着した返り血を拭っている間に、彼女は手早く死体を回収し始めた。それから道路に水を撒いて、掃除は終わりだ。血を洗い流す、これが一番時間が掛かる。だからあまり血液の飛び散らないような殺し方をしてもらえると助かるんだが。その方が、後のおれの食事にも好ましいし。
 雨はまだ降らない。が、道路の不審な水溜まりが、九時頃に降っていた通り雨のものといりまじって、一応不自然ではなくなった。
 車のトランクには死体の詰まった麻袋が積み込まれた。中年男性と子供の死体、今までに積んだ荷物の中でも、多い方になる。
「ねえ、先生。処分はどうします?」
 死体を抱えたおれの後ろで、智恵先生が言った。彼女は無計画に袋に詰め込んだらしく、不格好に膨れた袋の体積はトランクの積載量オーバー気味だった。
「私が引き受けますよ、って言えば良いでしょうかね」
 いつもなら一も二もなくそう言った。だが今は、酷く気分が悪い。食事を目前にして、吐き気。
「お嫌でしたら、私が持って帰ります」
「そうして頂けると助かります。こう何度も、不審な……」
 死体を抱えて兄の所に行くのもどうかと思った。理由を知っている兄にとっては不審でも何でもないだろうが。寧ろこういう経緯で手に入った死体なら、まだ後ろ暗さは少ない。
「良かった。ちょっと調べたい事があったんです」
「調べたい事というと」
 ぐにぐにする塊を押しつぶしながら、何とかトランクを閉じた。匂いだけが後に残る。明日の朝までには、それも消えるだろう。
「だって今の、不思議じゃありませんでした? 死体が動いたこと。共食いと関係あるのかしら」
 彼女は背後で笑ったような気がした。
「ご覧になりましたでしょ。子供の方が男の血を飲んでいたの」
 見ていない。
 おれからは智恵先生が影になって、子供は動き出すまで見えて居なかった。だから、彼女が言っている内容が真実であるかどうか疑う余地がある。おれは見ていないのだから。
「車、乗って下さい。次は練馬でしたっけ」
 深くは考えたくないことばかりだ。

 練馬駅まで、と彼女は言った。ここからなら車で十数分で辿り着く。
「目的地は練馬の駅構内ですか? 多分、このままじゃ閉まっちゃいますよ」
 深夜十三時二十分。さっきの掃除に時間が掛かってしまった。終電が十三時前ぐらいだから、半前には駅は閉まってしまう。
「大丈夫です。家を出る前に、駅に開けておいてくれって連絡しておきましたから。人払いもお願いしてあります」
「それだけ話が通じるなら、わざわざ出向かなくても。駅構内なんでしょう?」
「それが、やっぱりダメだったんです。私も最初は、鉄道会社の方で片付けてくれると思ってたんですけど。ほら、さっき言いましたでしょう。この間の人身事故」
「不審事件になってしまったというやつ」
「事件自体は殆ど自然に処理出来たんです。久藤君が、自殺に見えるよう上手に駅のホームから突き落としてくれたから」
「それはまた」穏やかならないことだ。
 ぼーっと電車を待っていたら、背後から突き落とされるか。鬼憑きというだけで。いや、被害者となるのに充分な条件だろうが。捕食者が被食者の反撃に遭うのは、致し方がない。生存競争の結果だ。
「だから掃除には行かなくて済みました。だけど、まだ残ってるって話を聞いたから」
「死体が?」
「事件になる前に回収しないと。腐ってないと良いですわね。結構日が経ってしまいましたから」
 腐って、いるだろう。ここ最近、雨と曇りで生温い気候だった。一日と持たない。そんなのを、おれの車に乗せるのか。匂いが移ったりしないだろうな。
「ねえ糸色先生、久藤君って本当に良い子なんですよ」
 智恵先生は突拍子もない事を言い出した。
 恐らく人目もあっただろう駅のホームで、冷静に人間を突き落とせる人物が? それも、自殺に見せかけた。殺し方に優劣付けるのも可笑しいが、面と向かって切り刻むよりもよっぽど陰湿に思えた。
「弟さんが担任をしているクラスの生徒です。先生も、会ったらきっと好きになりますわ」
「久藤、何て言うんですか」
「准」
 久藤准、ね。警戒しなければいけない名前が増えた。会ったこともないし、会う予定も、無いと良いんだが。
「私も、ってことは智恵先生は?」
 赤い口紅が密やかに笑った。お気に入りって所か。
 車は間もなく練馬駅の南口に辿り着いた。深夜十三時半。車のライトの先に、地面に座り込んだ小さな二つの影が見えた。

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