駅構内の沈黙

 電話が鳴った。少年が何かのはずみで携帯の通話ボタンを押し、電話口から大音量の女の声が再生された。
「もしもし?」
 低く静かな声だった。
「出ねーのかよ」
『うるさい お前が対応しろ』
「もしもし? 誰もいないんですか?」
 何かに怯えているような微かな囁きが、電話によって増幅されて聴こえる。
「いるよ。あんた、だれ?」
「あ、私は……」言い淀んだ。
「イタズラ電話かよ」
「違います、そうじゃないんです」
「じゃ、何だよ」
「私、判らないんです」
 まだ若いらしい女は、滑舌の悪い甘ったるい声を出し始めた。
『何だこの女 頭おかしいんじゃねーの?』
「判らないってどういう事だよ」
「何にも思い出せないんです。お願いします、助けて下さい」
「はあ?」
「私、閉じこめられてるんです。ずっと外に出られないんです」
 女は確かにそう言った。
「やっぱイタズラだろ」
『オレもそう思う でも面白いからもっと続けろ』
「あのう、聞いていますか?」
『何でオレの携帯にかけたんだ?』
「なんでこの番号にかけたの?」
「それは、適当に番号を押して」
『暇人かよ』
「思うんだけど、そういうのって警察につうほーしたらいいんじゃねえの? 電話使えるんだし」
「しました。五番目に電話した人が、警察の電話番号を教えてくれて。でも警察って、人の話を真面目に聞いてくれないんですね」
「そうなのか?」
『オレは警察に世話になったことなんてねーから知らねーよ』
「そうなんです。だから適当に番号を押して」
「イタズラ電話してんのか」
「違います! ほんとうなんです。ずっと閉じこめられてて、時々酷く恐い目に遭わされるんです。嘘なんか言ってません。ほんとうに、恐いんです。助けて下さい!」
 その叫びを聞いていて、だんだん背筋がゾーッと冷たくなってきた。使い慣れた私の携帯が突然赤の他人の悲鳴を再生している。
 女の話は非現実的なのに、その判りやすく女らしい声は現実以外に捉えようもない。電話の向こうに変な女がいる。いなければ声は聞こえない。彼女はちゃんと交の質問に答えていた。イタズラにしたって、あんまりにも気持ち悪い。
「お願いします、あっ」
 切れた。
「何だったんだ? オレの携帯返せよ」
 交が私の手から携帯をひったくって、それから握っていた私の携帯を突き出した。
 昼間の渋谷の路上でのことだった。雨の降りそうな灰色の大気が流れていた。流れていく大量の人々は、道端で妙な会話を交わす五歳児と女子高生の話なんて気にも止めない。


 その日の深夜、耳慣れない電子音で飛び起きた。枕元の携帯が騒がしくがなっている。普段電話が鳴ることは無いので、着信音が初期設定のままのアラーム音になっていた。
 寝惚け眼で携帯を開き、番号の確認もせずに切った。
 翌朝着信有りのアイコンを開いてみると、前日の昼に掛かってきた番号と同じだったらしい。時間は深夜一時半。
 それが二日続いた。寝不足にもなる。寝る前に電源を切ることも考えたけれど、そうすると夜中に来るメールが見れないのが不安だった。
 誰に相談したらいいのかも判らず、取り合えずあの日一緒に電話を取った交に話してみることにした。
「今夜も来たら、取ってみようぜ」
 という事になったので、今日は深夜まで起きている事にした。
 なんでそんなことをしようと思ったのかよく判らないけど、交は楽しそうだった。だけど、この子はそんなに遅くまで起きていられるだろうか?
 お泊まりに来た交は案の定、十時を過ぎた頃にうとうとと眠り始めた。でも考えてみれば、ここ二日の電話がほぼ同じ一時半にかかってきたのだから、今日の電話もきっとそのくらいだろう。
 私も一時二十分にアラームをセットして、一度布団に入った。
 少しだけ変な夢を見た。電話口から白い変な生き物が出てくる夢だった。それは綿菓子のような、雲のような不定形をしていて、気持ちが悪いほど変な生き物ではなかったけど、不安定な形状をしていたために「これは良くない」と直感的に思った。
 何とかしようと思って手を伸ばして握ってみると、意外なことにかなり手応えがあって、力を込めると千切れて消えた。
 そこでアラームが鳴った。三連続でピと鳴るアラーム音が、びっくりするほど大きく聞こえた。それで交も目を覚まし、
「なんだ?」
 と目を丸くして叫んだ。
『そろそろ電話がくる時間だ』
 私の携帯に電話が鳴るはずなので、予め借りていた交の携帯を使って会話した。宛先が空の新規メールを作って、本文に言葉を入力して会話する。交の携帯は子供用だから、ボタンが大きくて逆に使いづらかった。
 今、一時二十二分。十分前は早すぎたかもしれない。
「ドキドキする」
『怯えてんのかよ 弱虫』
「弱虫じゃねーよ。なんか、ちょっとワクワクするんだ」
 部屋の灯りは消していた。深夜に電気を点けたままだと父親が心配して踏み込んでくる恐れがあるからだ。カーテンも閉めている。暗い部屋の中に、携帯の光が二つ。そして謎の女からの電話を待っている。
 確かにちょっとワクワクした。
「イタズラ電話にしちゃー、手が込んでるよな」
『世の中には暇人ってのがいるんだよ』
「望みたいなのか」
『あのハゲ以上だろ』
「だろうなー。でもさ、ホントかもしれないよな?」
『それはない』
「閉じこめられてるって言ってたじゃん。そういうの、カンキンって言うんだよな。たまにテレビでそういう事件やってるから知ってる」
『マジだったら警察に通報だな』
「助けに行かないのか?」
『高校生と五歳児が集まって何ができるんだ、バカ』
 一時二十八分。じっと待っていると、息が詰まるような感じがしてきた。
「そろそろだな」
 交が言い終わるぐらいに、着信音が鳴った。アラーム音じゃない。
「お、おい」と交が息を呑んだ。
 暗い部屋に響く水の音と風の音。深夜の着信に驚かないように、環境音とかいう静かな着信音に自分で変えのに、逆にものすごく不気味だった。ホラー映画の、音だけを聴いているような気分。
『早く取れ』と慌てて標示させた。
 交が頷いて、通話ボタンを押す。
 ピッと短い電子音の後、音が全部消えてシーンとなった。ただ画面の光がチカチカ回っている。
「も、もしもし」
「ああ! 良かった、繋がった!」
 聞き覚えのある、甘い女の声が聞こえた。
「二日も出てくれなかったから、もう諦めようと思ってたわ」
 女の声は妙に明るくなっていた。本当に監禁されているなら、こんな悠長な喋り方はしない。
「アンタ、三日前と同じ人だよね?」
「そうよ。あの時は昼間だったけど」
『イタズラっぽいな 緊張感無さ過ぎだろ』
「逆に不気味な感じだよな」
『深夜に電話すんなって言え』
「なんでこんな深夜に電話するんだよ」
「だって昼間は沢山人がいるから」
「沢山? 夜は居ないのか?」
「夜、そうね、一時を過ぎたぐらいから人がいなくなるわ。でも用心して、少し待ってから電話してるの」
「人がいなくなるなら、逃げれば良いじゃないか」
「だめよ、動けないの。体がものすごく痛いわ。それに右腕と左足が動かない」
「痛いのか!?」
『なんかひどいことされるって言ってたじゃねーか 忘れたのかバカ』
「痛いけど、でも左腕と右足は動くのよ。右手と左足は縛られてるみたいだけど、なんとか電話のあるところまでは行けるわ」
「うわっ」
『想像で悲鳴上げてんじゃねーよ どうせ適当なウソ言ってんだから』
「しょ、しょーがねーだろ。気持ち悪いんだよ!」
「ねえ、他に誰か居るの?」
「え? えっと」
『友達がいるって言えばいい』
「友達! この間も一緒にいたんだ」
「お友達なのね。その子も、小さい子?」
『小さくねえっつの 死ね』
「小さいよ」
『まじふざけんな コロス』
「その子は喋ってくれないの?」
「どうする?」
『バカ女の相手なんて死んでもお断りだ』
「嫌だってさ」
「そう。残念だわ。その子、女の子?」
「そうだ」
「彼女?」
『どうでもいい話ばっかしてんじゃねーよ 何で何回も電話掛けたのか聞け』
「なんでこの電話に何回もかけたの?」
「あのね、私沢山電話かけたけど、ちゃんと話を聞いてくれたの、あなたたちだけだったわ。それに子供が出たのも」
『頭悪いな』
「お願い、助けて」
「助けてって言われても」
「何でもするわ」
 何でも、が妙に色っぽく聞こえて心臓がどきっとした。普通の女の喋り方じゃないような気がする。キャバクラとか、水商売やってる女が、深夜の暇をもてあそんで、イタズラ電話をして遊んでいる、あんまり上品じゃない映画のワンシーンのようなものが頭に浮かんだ。電話をかけた相手と純愛をして、最後にその相手の男は交通事故で死んでしまう、そんな風な陳腐な映画。頭悪い女子高生とかにうけるやつ。
『イタズラ電話じゃないって証明してみろ』
「あのさ、言っちゃ悪いんだけど、お姉さんの話嘘っぽいんだよ。暇だから適当に電話かけて遊んでるんだろ?」
「違うわ! ほんとうに、閉じこめられているの」
「どこに?」
「え……? どこ、かしら? ここは、どこ?」
「それはこっちが聞きたいよ」
「ごめんなさい。わからないわ。最初は、小石川駅の近くで攫われたの。車で運ばれて、どこか部屋に連れて行かれたわ」
『学校の近くじゃねーか』
「最初って何?」
「その後、一度逃げ出したの。三日前の昼よ。逃げながら電話したわ。でも連れ戻された。同じ場所じゃないみたい」
『車で移動した時間』
「最初の車で移動したのってどのくらい?」
「うーん、十分、二十分ぐらいかしら。頭から全部、袋みたいなのに入れられて、何も見えなかったからよく判らなかった。でも、そんなに遠くなかったと思う」
『さらわれた時に何か見たか』
「攫われた時って何も見なかったのか? 手がかりみたいなの」
「いきなり後ろから殴られたから、何も見てないわ」
「犯人の数も?」
「多分、二人だったと思うけど」
『そもそも攫われたのはいつだ』
「いつ攫われたの?」
「五日前」
「ずっと、じゃねーじゃん」
「じゃあ、あなたは一日でも知らない人に閉じこめられて、我慢出来るの?」
『無理無理無理無理』
「それ、無理があるな」
「そうでしょう? さあ、他に聞くことは無いの?」
「警察ごっこしてるみたいだな」
『遊びとしてはアリだな』
「うん」
「なあに? 聞こえなかったわ」
「何でもないよ。えっと、他に」
『今周りに見えるもの』
「今、何が周りに見える?」
「見えないわ、暗くて」
「何で電話が見えたんだよ」
「それは昼間に見た時に覚えていたからよ」
『そんなの理屈になるか 番号とかどうしたんだ』
「一回見ただけで覚えるのか? 番号、押せるのか?」
「覚えるわよ。押した番号の位置だって覚えてたわ。普通、そうでしょう」
『普通か? おかしいだろ 胡散臭い』
「あんたすごいんだな」
「そうなの? ありがとう。ねえ、そろそろ信じてくれた?」
『かなりあやしい』
「だよな」
『だいたいこんな長電話して大丈夫なのかよ』
「長電話してると、カンキンしてる奴に、電話してるのばれるんじゃないの?」
「そうね。でもここ二日ぐらい、近くに誰も来てないわ。放っておかれてるみたい。ああ、おなかすいたな」
「二日も食ってないのか」
「うん。でも体中が痛くて、忘れてた」
『何で痛いんだ』
「どうして痛いの?」
「何か、大きな物を全身にぶつけられたの」
「大きな物?」
「よく見えなかったから、なんだか判らなかったわ。でも、本当にものすごく大きい物だった。ぶつけられて、体がバラバラになるかと思ったぐらい。首とか体とか、全部痛かった。それから右手と左足が動かないわ」
「なんだそれ」
 想像してみると、やたらシュールだった。目隠しした女に、ものすごく大きな物体をぶつける。その物体は全身にくまなくぶつかるぐらい大きくて、衝撃は体をバラバラにしそうなぐらい。だからきっとものすごい速度でぶつかるんだろう。
 女の痛さを想像すると寒気がするのに、映像はギャグマンガのワンシーンのようなものしか思い浮かばない。
「酷い事って、それのことなのか?」
「ううん。その、大きな物をぶつけられたのは、あなた達に初めて電話した後よ。その前にも、きつく縛られたり殴られたりしたわ」
『犯人は変態だな』
「そうなのか?」
『間違いない』
「ねえ、そろそろ信じてよ」
『1+1は?』
「一足す一」
「二。どうしてそんなこと聞くの」
『245+987』
「二百三十四足す九百八十七」
「千二百三十二」
 女は一秒とかからず答えた。私が携帯のメニューを開いて電卓を起動するよりも早かった。
「適当に言っただろ」
「ほんとよ。何回計算しても、千二百三十二」
「ほんとか?」
『合ってる 1232 6536×4443』
「六千五百三十六×四万四千四百四十三」
「二億九千四十七万九千四百四十八」
『は? テメー数字間違って読んだだろ』
「あれ、そうだっけ」
「何回計算したって変わらないわよ。六千五百三十六×四万四千四百四十三で二億九千四十七万九千四百四十八」
『ちょっと待て 6536×444443?』
「四千四百四十三?」
「六千五百三十六×四万四千四百四十三よ。自分で言ったのに、忘れたの?」
「四万四千四百四十三」
『聞こえてるよ 何回も言うなバカ』
「もう一人の子が電卓使ってるのね」
『うるせー 290479448』
「なに? いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、ひゃくまん……」
「二、九、ゼロ、四、七、九、四、四、八、でしょ」
「……すげえ!」
『なんだこいつ』
「この計算と、私を助けるのと関係あるの?」
『ない 頭おかしいんじゃないかと思って聞いただけ 逆に、いかれてる』
「頭おかしいんじゃないかと思ったんだって」
「まだ信じてくれないの?」
「だって、なあ」
『そんだけ元気な監禁被害者がいるかよ』
「何て書いてあるんだ?」
『カンキンヒガイシャ』
「そんなに元気なカンキンヒガイシャがいるかなと思って」
「元気かしら」
「元気だよ」
「自分では、判らないわ」
『ホントだったらソウサクトドけとか出てるんじゃねーか?』
「ソウサクトドケ? は出てないのか?」
「そんなの私が知るわけないじゃない。私、攫われて閉じこめられてるのよ?」
「ソウサクトドケって何だ?」
『こいつがいなくなったぞ、って警察とかに出すやつ 多分』
「それって本人に届くのか?」
『居なくなってるんだから届かないだろ』
「じゃあ本人が知るわけないな」
「そうでしょ。でも、出てるかも知れないわ。私の捜索届けが出てたら、信じてくれるわね?」
「どう?」
『信じる かもな』
「信じるってさ。でも捜索届けってどうやって見るんだ?」
「警察に行けばいいわ」
「あんた警察に電話したって言ってなかったっけ?」
「そう、したんだけど、そうだ! その時、名前が判らなくてだめだったの」
「名前って誰の」
「私の」
「今は思い出せるのか?」
「ちょっと待って……」
 と、そこで電話が急に切れた。一回目と同じように唐突な切れ方だった。
『どう思う?』
「なんか、ヘンだな」
 とにかく、変な女だ。攫われた場所や状況はそれらしく語っていた。だけど名前が判らないから捜索届けは調べようがない。
「明日も電話あるかな」
 明日の電話は、どうしよう。出ようか、でも出るとしたら交がまた泊に来ていないと困る。二日連続で泊まりに来ていたら、先生も親が何か言いそうだ。
 だけど明日の電話も気になる。電話というか、この変な事件が気になる。
 着信履歴に番号は表示されない。『公衆電話』だ。深夜、どこかの電話ボックスで、助けてと叫ぶ女がいる。
『探すか?』
 深夜二時半。こんな変なこと、初めてだった。女の話は真実味があるようにも聴こえるし、そのくせなんだかやたら矛盾している。全部ウソ、が一番判りやすい答えだけど。
 でももし、全部が本当だったら?
 交がはっきり頷いた。やっぱり少しワクワクする。


 次の日の放課後、交と一緒に図書室に向かった。調べるといって思いついたのが新聞ぐらいで、家の新聞は丁度昨日がゴミの日で処分されてしまっていたし、交の所も同じだそうなので、図書室を頼ろうということになった。
 図書室は二年へ組の教室のある校舎の半地下部分にあって、校舎入り口から繋がる階段を下りて長い廊下を進んだ突き当たりにある。半地下一階の殆ど全部が図書室になっているので、学校の図書室としては広い方なんだと思う。広くても、目的が新聞だけだから関係ないけど。
 扉の右横に貸し出し用のカウンターがあり、その手前に数種類の新聞が掛けてあった。幾つか見てみると、今日の分だけがここに置かれているらしいことが判った。さしあたって今日の新聞に怪しい記事は無い。
「おや、珍しいですね。二人で」カウンターの中から声をかけられた。うちのクラスの担任だった。
「音無さんも新聞をお読みになるんですか」
『テメーには関係ないだろ』
「何やってんだ?」
「図書委員の仕事中です。本当は生徒がするんですが、当番の大草さんと久藤君が用事があるとかで帰ってしまったので」
『生徒より格下かよ』
「なー望、前の新聞って無いのか?」
「ありますよ。何に使うんですか」
『読むんだよ ちょっと考えりゃ判るだろ』
「はあ、あなた方が読むんですか?」
「読むっていうか、調べるんだ」
「何を?」
「それは、言っていいのか?」
 交がこっちを見て訊ねた。どうしようか。
 カウンターの向こうでへらへら笑う担任を見る。秘密にしたい。隠さないまでも、全部を言うのはもったいないような気がした。
『言わない』
「だよな」
 これは肝試しみたいなもので、大人が入ってくるとだめになる。
「なんだか除け者にされている気がするんですが」これが大人とは言い切れない気もするけど。
「いいからさ、新聞」
「はいはい。どの位前のを読みたいんですか?」
『六日前から昨日まで』
「ちょっと探してきます」
 カウンターの奧に倉庫があるらしい。戻ってきた担任は両手いっぱいに灰色の紙を抱えていた。
「ちょっと、多いな……」
「五日分って、結構ありますよ。一応地方紙とか、タウン紙も持ってきましたから。調べ物でしたら必要でしょう?」
「これ全部読むのか?」
 細かい字がずっと連なった紙の山は確かにうんざりするぐらいある。だけどテレビ欄とか芸能情報は読まなくても良いわけだし。とにかく、都内で女が失踪したとかそれ関連の事件がないかどうかだけを見ればいい。
 暫くの間新聞を捲っていると、ふと思いついたように交がカウンターの奧に話しかけた。
「そういえば望は毎日、新聞読んでるよな」
「読んでいますね。でも読んだ記事を全部覚えているわけではないですよ」
「女の人がいなくなったとか、そういう記事見なかったか?」
 さっき言わないと約束したのに、あっさり人を頼ることに切り替えたらしい。だけど私も本気で全部を読むのは嫌だったので、少しぐらいなら頼ってもいいかと思った。
「いや、記憶にないですね。そんな記事を探しているんですか。どうしてまた」
「何だっていいだろ。ほんとに覚えてないのか?」
「そもそも、女の人がいなくなった、それだけじゃ記事にならないでしょう」
 その通りだ。でも新聞の他に頼れる情報はないわけだし、少しでも関係有りそうな話が無いかどうか。
「ちょっとでも関係有りそうな事件、無かった?」
『都内でな』
「都内? 何で都内って判るんだ?」
『小石川駅で つってただろ あと移動もあんましてないって』
「でもあの人は元々遠くに住んでたのかもしれないじゃないか」
『標準語だった』
 それも態とらしいぐらいちゃんとした喋り方だった。頭がいい風で、男受けの良さそうな。そういう仕事をしている女なんだろう。そういう仕事は大抵都内だ。
「うーん。都内で、女の人がいなくなった、ねえ」
 少しの間うんうん唸っていた担任が、急に「ああ!」と良いながら手をポンと鳴らした。
「一昨日の記事でそんなのがありましたよ。東京新聞でしたっけね」
 おととい、六月二十日。確か朝から曇りで、前の日に降った雨の匂いが漂うすごく嫌な天気の日だった。




 女性が線路に転落し死亡、突風か

 西武池袋練馬駅のホームで19日昼、電車を待っていた新宿区在住飲食店店員××さん(26)が線路に転落し、直後に急行電車に撥ねられ死亡していたことがわかった。
 監視カメラの映像によると女性は突風に煽られるようにしてホームへ転落したと見られるが、事故直前に公衆電話で「助けてくれ」等の電話をかけていたことが目撃されていることから、警視庁練馬署は事故と自殺の両面で捜査している。
 同署によると、女性は二日前の17日から勤務先の飲食店を無断で欠勤していたとのこと。



 これは片隅に掲載された小さな記事だった。
「よくこんなの覚えてたな」
「明日は我が身、自殺に関する記事はきちんと読んでいます。死後とはいえ、下手に新聞沙汰になって騒がれるのは嫌ですから」
「その薄暗い性格、治した方がいいぞ」
 十九日昼の渋谷、私が鞄から落とした携帯に公衆電話からの着信。交が拾ったはずみで受け取った。その後三日にわたって――もしかしたら、今日も――深夜に公衆電話からの着信があった。
 死体からの電話。
「なあ、何て書いてあるんだ?」
『自分でヨメ』
「だいたい読んださ。でも読めない字が沢山あって、よく判らない」
 交が指差す漢字の音を一つ一つ拾っていって、昨日までの女の電話で与えられた情報が少しずつ繋がっていくのに、背筋につーっと走る弱い電気のようなものを感じた。それが恐怖なのか期待なのかよく判らない。浮ついた真実と同じように、心もどっちつかずに浮ついている。
 飲食店店員の女。急行電車に撥ねられ、死亡。「助けて」の電話。行方が判らなくなったのは死亡の二日前。これが一昨日の新聞だから、ちょうど女の語った五日間と重なった。
 色っぽくて妙に正しい言葉遣いをする彼女は、三日前に素早く動く大きな物体をぶつけられて、体がバラバラ……。
 私と交はお互いの血の気の引いた顔を見た。笑える。
「捜し物は見つかりましたか?」
 担任が空気を読まずに言った。
『間違いない』
 血まみれの女が、幾つも並ぶ緑色の電話に寄りかかって笑っている光景を思い浮かべた。残念ながら出来の悪いホラー漫画のような映像しか浮かばなかった。
「それにしても変な話ですよね。確かに練馬の駅は突風が吹く事はありますけど、それでホームに落ちるなんてことが有り得るんでしょうか」
 つまり女は殺されたんだ。誰かに。たぶん女を攫った犯人に。
『もう行くぞ』
「どこに?」
『練馬だろ』
 交が頷く。ワクワクした。肝試しは怯えた方が負けだ。


 家から持ってきた傘がただの荷物になってしまった。西武池袋線下り最終電車に乗って、練馬駅に降りた時に、ちょうど雨が止んだからだ。雨はじめじめした匂いを残して、それが走っていく電車の風に巻かれて私を押した。
 終電車の人並みが改札に向かい流れていく中で、私と交は電灯に照らされた線路を覗き見た。白いビニール袋と空き缶が転がっている。風が吹くが、ビニール袋は動かなかった。線路の上まで風は届かないらしい。
「ほんとに死んだのかな」
 当たり前のことだけど、線路の上に死体の痕跡は無かった。駅は普通に賑わっていて、とても私たちの想像するような変な事件が起こった場所とは思えない。電車に飛び込んで死ぬのって、こんなふうに三日の内に跡形もなく消えていくような死に方なんだ。
『もうちょっと探すぞ』
 何も見つからないのがかえって気持ち悪かった。
 ホームの屋根を見上げると、柱に取り付けられた監視カメラがあった。女が走ってくる電車に飛び込んだのは突風に押されたからだと新聞に書いてあった。つまりあの監視カメラには、彼女を押した誰かの腕は映っていなかったということだ。自殺も疑われる不自然さで。
 今もホームに強い風が吹いている。ここは高架駅になっているために風が起こる。だけど女一人を線路に落とすには弱い風だ。
 女は殺されたんだろうな、と妙な確信があった。彼女を誘拐した犯人が、逃げ出した彼女を追って、口封じか何かのためにここへ突き落とした。そう考えると大体辻褄が合う。死体が公衆電話を利用した、という事実を除けば。
 死体が電話をするっていうのは、どういう状況だろう? やっぱり幽霊みたいな感じなんだろうか。
 ここに来るまでの電車の中で、『幽霊っていると思うか?』と交に聞いてみた。
「いたら面白いよな」
 そう頷き合ったけど、本当を言うと、何が面白いのかは判らなかった。多分交にも判らないだろう。死んだのにまだ助けてと深夜に電話をかけてくる幽霊は、面白い? 迷惑なだけだ。
 だけど面白いような、気がする。心臓が落ち着かなくなって、思わず笑ってしまうような気分になる。
 それは面白いと感じているんだと思った。
 これは肝試しで、怖がったら情けないヤツ、なのだ。
「なあ、今、何時だ?」
 交が線路を覗き込みながら言った。どのくらい線路を眺めていたのか判らなかったが、その時には既に周囲にまったく人影が無くなっていた。
 携帯の画面にデジタル時計が標示されている。その模様を数字として認識しようとした途端、パッと照明が消えた。
 何の前触れもなく、よくあるホラー映画の手法の様に。
 私と交の咽がヒューと鳴った。二人とも、叫ぼうにも声が出なかった。私は普段から声は出さないけど――。
 電気が消えたのは、駅の営業時間が終わったからだとすぐに判った。だけど、まだホームに私たちはいるのに。まるで見捨てられてしまったみたいだ。
 駅は灰色に沈黙し、高架から見下ろす街の灯りが遠くに見える。私たちの後ろで改札口へ続く階段が、暗い穴ぼこのように口を開いていた。
「な、何時だ?」
『01:25』と待ち受けのデジタル時計が示している。
 公衆電話はこの階段の下にある。その先に、今日もあの女は私の携帯に電話をかけようとして受話器を持ち上げているだろうか?
 強い風が吹いている。肌を撫でるように、全身を嘗めるように土臭い風が吹いている。この程度の風で人間が線路に転落するわけがない。
 もっと強い力が彼女を突き落とした。
「芽留ねーちゃん」
 交が小さい手を伸ばして、携帯を握りしめた私の手をぎゅっと握った。
 やたら暖かいその手を感じて、私が今ひどく寒い場所にいるのをはっきりと認識した。
 六月、夏の入り口。雨が降っていたけれど、気温は低くない。だけど寒い。風が冷たいんじゃない。体の中心の部分がサァーっと冷めている、熱病に似た感覚。
 ここに何かがいる!
 私は急にはっきりとそれを感じた。暗い階段の下に何かが居る。
 意を決して段の一つを降りた。ぶわっと温い風が穴の底から流れてくる。湿ったこの気持ち悪い風が、人間の体を死という強い衝撃に突き落としたのだと、突然強烈な現実味を持って理解した。誰かの手ではなくて、この都会の自然が吹き流す風が。
 階段の下の闇が私たちを覗き込んでいる。今、暗い穴ぼこの口から、二つの足音がゆっくりと降り始めた。穴ぼこの咽が少しずつ近付いて、その腹の中が次第に明らかになっていく。既に暗闇に慣れた目が、僅かな隙間から入る遠い文明の灯りでぼんやりとした駅構内を見ていた。
 緑の電話が私の視界に入るまで、あと何段の猶予があるだろうか。交と繋いだ手の反対で濡れた傘を引きずって、かつんかつんと音を立てた。音は沈黙を殺して駅構内に反響したが、すぐに沈黙は無から蘇り、音を飲む形に膨れ上がる。
 足が震えた。寒さのせいだ。
 階段を下りきった時、確かに気温が何度か下がったような感じがした。
 辺りを見る。暗闇で無人。公衆トイレに立ち入り禁止の立て看板。駅から直接繋がるファーストフード店とスーパーのシャッターが降りており、営業を停止した乗り過ごし用の券売機、照明の落ちた自動販売機、鏡が壁沿いに置いてある。狭いような広いようなフロアの四隅には、ホームへ続く階段とエスカレーターが伸びている。その穴からは暗い光が差し込んでいた。
 もう女が電話をかける時刻になるのに、公衆電話がない。
 私は焦った。交と繋いだ手はそのままで、改札に向かって摺り足で歩いた。足音を鳴らしてはいけないような気がした。交の手が何度か強く私を引いたけど、何も言わないので、何が言いたいのかはよく判らなかった。
 改札を前にして、ふっと後ろを振り向くと、一番遠い階段の近くに公衆電話が三つ設置されているのが見えた。さっきまでは柱が影になって見えていなかった。
 そこに誰もいない。何もない。
 そんなはずはないのに。
 血まみれの女も、半透明の女も、その他あらゆるよく言われる形の死人の影は、そこには無かった。
 そこに彼女がいるはずなのに。ここじゃなかった? いや、私たちの考えが間違っていた筈はない。いないと、おかしい。
 この駅に来るまで、色んな恐ろしい幽霊を想像した。それは全て目に見える形の恐怖で、触れることは出来なくとも、少なくとも視覚の覚悟と安心を考えていた、のに!
 何も居ないはずはない。その証拠に、ゾワァと体の中心から広がる寒気は強くなるばかりだ。隣で同じように無人の空間を見ている交も、同じだろう。握る手の力がだんだん強くなってくる。だけどその顔を覗き込むことが出来ない。交の顔を見ている間に、血まみれで半透明の女が現れて、私の前に立ったらどうしよう!
 電話が鳴らない。私たちが、ここにいるからだ。自分を助けに来たのが判ったからだ。
 逃げたい!
「逃げよう!」
 交が私の手を引いて、改札に向かって走り出した。閉じた改札口の前で小さなからだがひらりと飛び上がり、自動改札機の上に乗った。私も改札を越えようとゲートを押したが、固く閉じて動かない。すぐ後ろにも、何か得体の知れないものが来ているような気がして、乗り越えようとしてもうまくいかない。
「早く!」
 自動改札機の上から交が私の手を引いた。宙に放り投げられるんじゃないかと思うほど強い力でひっぱられて、一瞬周りの景色がぜんぶまとめて灰色に変わったような感じがした。
 それでも上手く飛び越えられずに、握っていた携帯を落とした。あっと思ったが、声は出ない。カツーンと音だけが響いた。
「どうでもいいだろ、そんなの!」
 言い捨てて、交が私の手を引いたまま走る。落とした拍子に開いた携帯の待ち受けが、薄暗い中で煌々と光っていた。
 右に曲がって、外に繋がる広い階段がある。外から車の通る音が聞こえた。
 あそこまで行けば、何とかなる。
 いや、本当に背後に何かがいるんだろうか? 目に見えないそれは、私の周りのどこで、私の命を狙っているんだろう。女が電話口で言っていた「おなかすいた」が、鮮烈に思い出された。
 死人は何を食べるのだろう。
 突然、地面が顔の前に現れた。派手な音を立てて、私は床に転んでいた。履いていた靴のヒールが、床のタイルに引っかかっている。
「何でそんな靴履いてくるんだよ!」
 もどかしく、交が叫んだ。言い返そうにも携帯がない。そんなことよりも、私たちを追いかけ回す何かが間近に近付いてきている予感が全身を駆けめぐった。
 耐えきれずに後ろを見るが、何も居ない。
 絶対に近くに居る。でも、どこに?
「ちくしょおっ」
 交が私の手から傘をもぎ取って、でたらめに振り回した。
 女はほんとうにいる! 近くにいるはずなのに!
「どこだ!」と叫んだすぐ後、交がかっと目を見開いた。
 そして、傘を高く振り上げたまま、何の躊躇もなく階段を真っ直ぐに飛び降りた!
 それを見て、私にも判った。何かが、私たちの前に回り込んでいたこと。階段の下で待ちかまえていた。
 傘を振り下ろしながら、交は長い時間をかけて階段の一番下まで転がり落ちた。
 その体が地面に落ちた音が聞こえて、私の体から寒気が引いていることに気がついた。
 助かった!
 慌てて立ち上がり靴を脱ぎ捨て、階段を駆け下りる。地面に尻餅をついた交の側に行って、膝を着いて、小さい肩を両手で掴んだ。「大丈夫?」と叫びたかった。だけど声は出ない。携帯もない。
「い、今、何か、すんごい手応えがあった……」
 どういう事? 交は唖然とした様子で、両手を胸の前でぐっと開いて見せた。
 その時、車が一台、近くの車道に止まった。そのライトが私たちを強く照らした。目が潰れそうなほどに眩しい。
「おい、あれ……」
 交が震える手で背後を指差す。また頭の奧に怖気を感じて、恐る恐る後ろを振り向いた。
 明るい階段の半ばほどに、寂しく横たえられた、白っぽい腕!
 左手だ。バラバラになった、左手!
 目の前が真っ暗になった。今度こそ何か叫んだ気がする。

さよなら絶望先生 目次

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