愛を纏う夢を見る

 この世界で一番恐ろしいのは、人殺しだ。幼い私は、父が殺されるところを見た。女だった。最初、大声で言い争う二人を見つけた。今住んでいる所ではなくて、どこか別な古い家だった。一度引っ越しをした覚えがあるから、そこはそれ以前に住んでいた家だろう。
 母は留守にしていた。だからそれは知らない女だった。父は私がいることを知らずに、女を呼んだのだった。
 物影から二人を見ていた。ついに女は刃物を取り出し、父に向かって振り上げた。悲鳴を上げる父に、何度も何度も振り下ろした。おぞましい血が飛び散った。
 父が止めろと叫ぶ。女の呼吸が聴こえる。父は咽が涸れるまで叫んだ。死ぬまで。
 父が泣き叫ぶのを止めると、女は床にへばりついた。舌を出して、飛び散った血を嘗めていた。犬猫が水を飲む姿に似ていた。女は私がいることには、終に気がつかなかった。
 私はその恐ろしい光景を覚えている。
 その後どうなったのかは覚えていない。母が泣いたことも警察が来たことも、朧気な夢のようだ。
 ただ、私は父が好きだった。私が目を離した隙に父は殺されたのだと思う。

 先生を追いかけて入った図書室は、冷房の匂いがした。少し寒い。先生が本を読んでいる。私は本棚の影に置いてある小さな椅子に腰掛けた。
 先生は読書用の大きな机に座り、本を読んでいる。機械の風が髪を撫でている。こうして、見ているだけでも幸せだった。目を離さないで見つめ続けたい。もう二度と嫌な夢を見ないように。
 人を喰う外道の存在を知ったのは、高校に上がってからだった。あの女がそうに違いなかった。私は人殺しが一番罪深いと思う。その人を愛する誰かに、深い絶望を与えるから。
 この部屋には、警戒すべき相手はいない。先生と私と、カウンターに座っている男子生徒が一人いるきり。彼が先生を奪うことはない。女だ。恐いのは。
 先生は随分長い間読み耽っている。私もページを捲る先生の指を長い間見張っている。この空間を壊す女はいないだろうか? 時々顔を上げて周囲を見回す。
 気がつくと、カウンターに座っていた生徒がいなくなっていた。扉の開く音は聞こえなかった。
 どこに行ったの?
「常月さん」
 私の背後で本棚の影が囁いた。

「ちょっといいかな」
 同じクラスの久藤君だった。カウンターに座っていたはずなのに、いつの間にこっちに歩いてきたんだろう。じっと先生を見ていたから、足音にも気がつかなかった。
「何?」
 滅多に話すことのない相手だったので、私は些か戸惑った。私と彼に共通の話題があるようには思えなかった。
「先生のことなんだけど」
「先生の?」
 なんだろう。静かな図書室に似付かわしく小さな声で、久藤君が先生と呟いた。それは見知らぬ女の着ける香水のような輪郭のない色で、不安がまとわりつく感じがする。
 後ろを振り返ってみたら、先生が少し不思議そうに私を見ていた。先生には本棚の影で久藤君が見えていない。きっと誰かの囁きがほんの少し聞こえたんだ。
「先生がどうかしたの?」
「常月さんっていつも先生と一緒にいるよね」
「うん。一緒にいないと、先生、何するかわからないんだから」
「変なことされたりしない?」
「え」何てこと言うんだろう。「せ、先生に?」
 私は思わず顔が熱くなったが、すぐにその熱が消えた。
 図書室はあまりにも寒かったから。そう、見上げた彼の顔が本当に冷たい。その顔は何を言いたいのかまったく判らなかった。
 その顔が、
「何もされてないんだ」と笑った。
 それは背中がかっと冷たくなるような笑い方!
「何、何なの? 何が言いたいの?」
 彼には物を考える生き物の熱がない。僅かに口の端を上げて微笑んで見せているのは、私を馬鹿にしているの? 何が判るって言うの? 先生と私の間の何を笑っているの?
 真意の掴めない綿のような声が、恐い!
「先生につきまとうの、止めた方が良いよ」
「なんでそんなこと言うの!?」
 こいつも恐いんだ! 見知らぬ女だけじゃない、沢山居る私以外の女だけじゃない、この人も、恐い!
 私は手を挙げた。その恐ろしく冷たい顔をぶん殴ってやりたい!
 ぱん、と乾いた音が響いた。手が痺れる程痛い。横の本棚にぶつかったから。
「ごめん。そういうつもりじゃなかったんだ」
 彼はそう言いながら、私の手を強く弾いた右手でもって抱き寄せるように私の肩を掴んだ。
「近くにいると、危ないから」
 と耳元で囁いて、続けた。強い声で。
「先生は、鬼なのかもしれない」
 目の前が真っ暗にる。
 鬼。鬼って、あの女と同じ、人殺し!
「そんなわけない! 私、ずっと見てるんだから! 先生が鬼のわけ……」
 とん、と物の落ちる音がした。
「何を……」
 先生だ。先生は私が悲鳴を上げたから、来てくれたんだ。先生が私の後ろに立っている。そしてきっと、久藤君はその姿を見ている。先生は久藤君を見ている。この恐ろしい生き物を見ている。
 恐ろしいのは彼で、先生は違う! そうに決まってる。
 私は彼の言葉が嘘だと、先生の振るえる声が呟くのを待っている。
 だけど、
「常月さん……久藤君……どうして、それを……」
 この場所は極寒のようで、心ががくがくと震えた。
 本当なんだ! 本当なんだ、先生は、人殺しなの!?
 私は久藤君の手を振り払って先生を見た。足下に本が落ちている。唖然とした顔で私と久藤君を見ている。
 本当なんだ! 嘘だったらそんな顔しない。嘘だったら、嘘だって言うでしょう。いくら待っても、先生は嘘だって言わない。
 恐い、恐い、恐い、恐い、恐い!
 気がついたら、私は図書室から逃げ出していた。

 袴の裾を踏む私は、さぞ滑稽だったでしょうね。
「まといちゃん、だいじょうぶ?」
 階段の踊り場に少女が立っていた。西日を背に彼女は眩しく、影になったシルエットが不気味に浮いていた。黒い顔は誰だか判らない。
 彼女は階段を駆け下りて、私の横にしゃがみ込んだ。私は躓いた階段にへばりついている。膝と手が痛かった。
「何かあったんだね」
 私は彼女の顔など見たくもなかった。何も見たくなかった。私はただ恐い。人殺しは私の背後にいるかもしれない。
「先生が何かしたの?」
 彼女は言った。あいつと同じ事を訊いた。少し笑いながら――彼女は転んだ私に手を差し伸べるでもなく、ただ私の隣で綿のような甘い声で問うている。
「ね、先生が何かしたの?」
 繰り返し。先生が? いいえ、先生は何もしていない!
 先生、先生、私の大好きな先生、あの人はなにもしていないのです! 私は長い間あの人を見ていたから知ってる。死にたがりで寂しがりのかわいい人。あの人は何もしていないし、私は愛していたのに! だけどさっきの、あの言葉は? 先生は本当に鬼なの? 先生は本当に人殺し……。
「そう、違うんだね」
 彼女は寂しそうに言った。なぜ?
 私は彼女の顔を見た。その寂しそうな顔。どうして?
「先生、心配だね」と言う。
「あ、私……」
 私は聞いたの、先生の秘密を。そう言いたかったけど、唇がわなわなと震えて、言葉にならなかった。
 彼女は階段の下、そこから伸びる廊下の遙か向こうで開いたままになっている図書室の扉を指差した。
「心配、だな」
 どうして?
 全てを知っているような顔をして、どうして?
 私が持てなかった感情を口にするのは何故!
「まといちゃんって、純愛よね。なら、仕方ないよ」
 まるで彼女はそうではないかのように。そうして彼女は立ち上がって、階段を降り始めた。先生の幻を追うように。
「風浦さん!」
 私は溜まらず呼び止めた。
「なあに?」と彼女は微笑んで振り返った。
「あ、あぶないよ……」
「私は平気だから」
 ふふ、と笑って歩き出す。その彼女の視線の先には先生がいる。私の愛しい、愛しい人が。
 私は彼女と決別して階段を駆け上がった。
 あの苦しそうな、顔。あの人の苦しみを取り除いてあげたい! 恐くなんてない、私は命なんて惜しくないのに。どうして逃げ出してしまったんだろう、苦しんでいるあの人から!
 私はあの人を救いたい。できるはず、愛しているんだもの。
 先生の居ない宿直室に駆け込んだ私は、最低限必要な荷物を鞄に詰めた。
「どこに行くの?」
 と、部屋に居座っている小森さんが訊ねた。答える義理はない。
「逃げるの?」
「うるさい! あなたは知らないんでしょ?」
「……何の話?」
 この子は知らない。見れば判る。知っているのは、きっと私と、あの二人だけ。
 先生を人殺しにはしない。そして、誰にも先生を殺させはしない。世界中の誰にも、あの人の罪を問わせはしない。
 急がなくっちゃ。久藤君は鬼を追う方の人間に違いない。クラスのみんながそういうことをしているとは聞いている。急がないと先生が危ない。彼らが先生を追いつめてしまうかもしれない。
 だけどそんなこと、絶対にさせない。
「先生につきまとわなくて良いの?」
「私、すぐ戻るから」
 何も旅に出るわけじゃない。ただ先生を救う方法を探したいだけ。調べるのは得意だし、それで命が危なくっても、私はやれる。
 私は愛しているんだから。

さよなら絶望先生 目次

index