純愛

 背の高さの違う本が並ぶ本棚の隙間から、真っ黒く落ち窪んだ双眼が覘いている。その暗い眼光を見ていると、蒸し暑い夜に、腐った井戸を覗き込むような気分になる。
 妙に暑い。図書室に入ってくる時に、空調はチェックした。二十五度。誰も変えていないはずだ。だって、今この広い箱にいるのは、私と目の前の生徒だけだ。
 この十分ほどの間、機械は変わらず働き続けているはずだ。なのに妙に暑い。
 こめかみの辺りから、つぅっと汗の滴が落ちた。
「どうか、しましたか?」
 本の隙間で、暗い目が二度瞬きをした。
 見えない口元が笑っているんじゃないだろうか。笑っているに違いない。
 私の腕は真っ直ぐ前に伸びた。
 手の平が熱い。焼けた鉄の様に熱い。その手で力任せに、目の前の本棚を突いた。
 どーん、と騒がしい音が響いて、本棚が倒れる。手の届かない上の上の段から順番に、大量の本が崩れた。何年も眠っていた埃が白っぽい煙になって舞う。
 咽と目が痛がった。それが治まるまで、私の腕の痛みも、同じように続いていた。
 そして息が詰まる。暑さがいつの間にか寒気に変わっていた。腕と首と顔に流れ出した汗が、何所からか入ってくる隙間風に吹かれて、急速に冷やされているのだ。
 私は必死だった。目の前にある崩壊した本棚、堆く溢れた何百冊の本、その下にあるものは考えたくなかった。その下にあるものが、私の望んだようになっているのか、そうであったとしても、無事であったとしても、考え得る良くない結果に変わりは無かった。
 だのに私は腕を伸ばした。そうしなければならぬと、頭の中で私が強烈に望んだのだ。
「先生」
 冷えた声だった。私の内臓を押しつぶすような声が、すぐ後ろから聞こえた。
「これはいったい、どうなさったんですか」
「風浦さん」咽が渇いた。「何故、あなたがここに」
 いつの間にか現れていた女生徒は、普段と変わらない顔で言った。
「まといちゃんが、真っ青な顔して図書室から走ってきたんです。先生ったら、また良くないことをしたんですね」
「私は何もしていません!」
「じゃあ何があったって言うんですか?」
 私の破壊した本棚。彼女はいつから見ていたのか? いや、どっちにしたってこれは言い逃れは出来ない状態だ。しかし常月さんの件は違う。
「あれは、久藤君が」
 と、私が言ってしまうのは、墓穴だった。涸れた咽が、続きを飲み込んでひゅうと鳴った。
 それで何秒か、何分かの間、私は言葉を失って黙った。だが、彼女は訳知り顔で微笑んで見せた。
「久藤君が、まといちゃんに何か言ったんですね。それで驚いて、逃げてしまったんですね」
「なぜ」彼女は私の声を遮る。
「それで、どうして久藤君がその事を知っているのか、先生は驚いてしまわれたんですね。今まで誰にも言わなかったのに。でも私も知ってますよ。みんなは知りません。どうかしました?」
 脳が痛む程に静かだった。普段は波打つ私の思考が、彼女にきつく縛られる。
「あんまりびっくりしたから、こんなことしてしまったんですね。でも私、ちゃんとわかってますよ。先生は生徒に対して暴力を振るうような人間じゃありませんもの」
「わ、私は……」
 彼女の話は恐ろしかった。一度凍らせた脳が、今度は温く融解する。
 どうして私は久藤君に手を上げたのか? 恐ろしくなったからって、自分の生徒を、傷つけようとしたのか?
 どうしてって、理由は自分が一番判っているじゃあないか。ここ十数分の記憶と思考が、蘇って、暴れ出す。自分の秘密を知られたからって、傷つけようとしたわけではないのだ。決して、そんなことを望んだわけではないのだ。
 殺すつもりだった。
「殺すだなんて考えたのは、気の迷いですよ。ね?」
 綺麗な目が、私の精神を真っ直ぐに覗き込む。
「あなたに何が判るって言うんですか」
「判りますよ。先生だって、判ってこうしたんでしょう? 久藤君がちゃんと避けられるって」
「え?」
 そうだ。彼女が私と話すこの長い間、本の山からは呻き声さえ聞こえてこない。どこに?
 彼は、果たして無事に、私たちから少し離れた所に立っていた。彼女の言うとおり、襲い来る本棚の隙間から無事に逃げおおせていたのだ。
 ゾッとした。涼しい顔で黙って私たちを眺めている彼は、全くの無傷に見えた。私は確かに殺すつもりだったし、充分力を込めて彼を攻撃したつもりだった。本棚の間の通路は細く、また長く、どちらか端へ逃げるにしても、どうやっても間に合わないはずだったのに。
 そういえばこの手の平に、いつか感じたような生々しい感触はなかった。
「先生、誰が片付けると思ってるんですか」
 久藤君が屈託無く、めんどくさそうに言った。
「手伝うよ」
 私を置いて、二人は、いつもと変わらぬ表情に戻った。
 崩れた本棚の側に二人はしゃがみ込んで、教室で笑うやり方と同じ方法で笑い、取り留めもない会話をしている。信じられない。
 私はといえば、さっきから自分に起こったことが、細々とした幾つかまでも、信じることが出来ずにいた。疑いで痺れて、頭が上手く動かないのだ。作業をする二人の側で突っ立ったまま、何度も同じ事を考えた。
「あ、久藤君、ここ血が出てるよ」
 不意に彼女が久藤君の前髪を掻き上げた。小さな傷口から溢れた、血!
 血! それは私が幼い頃から焦がれて止まなかった、真っ赤な血だ!
 その赤い点が目に焼き付いて、じわじわと視界を浸食する。少女の細い指がその血を拭う。一滴にも満たない、鈍い色!
 咽に吐き気のような食欲が込み上げる。苦い唾液が舌の上で藻掻く。
 私は決死の思いで、二人に背を向けた。この場に居てはいけない。逃げるように、図書室の扉へ走り出した。
「先生、さようなら」
 少年が言った。敢えて引き留めようとしているかのようだ。たまらず振り返って見ると、少女が自分の指に乗せた血液を、その血に負けず劣らず赤い舌で嘗め取っていた。
「久藤君の血は甘い味がするね」
 と、言った気がする。逃げ出した私は、よく聞き取ることができなかった。
 私は、今まで私は、この世で一番恐ろしく醜いのは自分だと思っていた。知らなかった。もっと別にある、胸を食いつぶすような恐怖。

さよなら絶望先生 目次

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