天峡の女 一

 どれほど周りを見回しても、見知った影が一つもない。空は高く、日が照っている。周囲は鬱蒼と茂った森だ。土と植物の匂いに混じって、自分の体臭がきつく感じられた。
 汗が異常に噴き出すのだ。気温が高いわけではないと思う。アスファルトから立ち昇る熱気が無いし、怒り狂った太陽の光は木々の葉に遮られている。その上風もよく通る場所だ。気温の点では、さっきまでと打って変わって快適だった。
 だのに、気持ちの悪い汗が肌からにじみ出る。
 ここはどこだ。さっきまで歩いていた、渋谷の交差点では無い、と思う。目眩が酷い。もしかしたら、ここは渋谷なのかもしれない。一呼吸する間に、私の目が曇ったのだ。熱が、熱が出ている。額に手を当てると、ぞくりとするほど頭が冷えていた。体調が優れない。まともにものを考えられる状態じゃない。幻か何かを見ているのだ。
 そうでないなら、これは何だ。
 脇腹がじくじくと痛んだ。内臓が剔られたみたいであり不快。血は、出ていない。鋭い痛みだけが残留している。
 なんでだ。なんでここに来た。
 どれほど周囲を見渡しても、疑問に答える相手は見あたらない。
 獣の鳴く声、虫の羽音、空気の擦れる音が静かに響いている。
 山の中だ。深い森の――大変な田舎の深い森の中だ。東京には無いと思う。少なくとも渋谷の交差点ではなく、ああ、どうしようもない。考えても判らない。
 とかく周囲に何も見あたらないのだから、探しに行かなければならない。留まっていて、事態を好転する機械が現れるとは、どうしても思えない。
 歩こう。どこへ? 少なくとも、森の開ける方だ。そんなの判断着かない。それなら水音のする方。河が見つかれば、それを辿って下流へ歩けば、人家が有るだろう。
 水音。何も聞こえない。
 なら、真っ直ぐ歩くしかない。斜面を下る方向へ。
 途中で同じ場所を通らないように、印を付けながら行かなければいけない。地面を何度も踏みつければ、草や苔に足跡が残った。これで充分か。
 太陽はほぼ真上にあり、これは渋谷に居た時と同じ時刻だということだ。最後に携帯電話の時計を見たのが十四時過ぎ。鞄に携帯電話を入れていた。鞄が無い。何も持っていない。あの時全部投げ出して走ったからか。
 あの子供は無事だろうか?
 私は、このとおり脇腹が痛いけど……逃げられただろうか? 他に被害者は出なかっただろうか?
 判らない。これが幻なら、目が覚めた時に知れる。
 目が覚めるなら。もう既にその希望が存在しないような気がしていた。体を走る不快感と、自然の生み出す騒音や感触が、あまりにも現実的で、それまで自分が存在していた現実が、遠のいていくのを感じる。あれは確かに現実だった筈だが、今も現実に相違なかった。夢を見ている時に感じる、思考にぴったりと張り付く柔らかい壁を感じる事が出来ない。その代わりに、現実と認識させる堅く果てしない床を感じる。
 なるほど今は確かに現実に違いがなかった。突然渋谷がこのような森に変わる理由を分析する事は出来なかったが、理論は事実の後ろに繋げるしか無いのだ。
 この渋谷には誰もいない。あの子供も、あの気持ちの悪い犯罪者もいないし、優と浅海もいない。息が詰まるまで流れ続ける無数の人々も居ない。あるのは噎せ返るような自然だけだ。その自然は人間を排除せんばかりに盛りを極めている。人間を監禁したがる鋼鉄のビルディングの群れとは対照的だ。
 巨大な虫が目の前を通り過ぎた。黒い体に薄い羽を羽ばたかせていた。こんな大きな虫は、街にはいないだろう。いたとしても、誰かに叩き潰されて、或いは踏みつぶされて死んでしまう。
 無いものがあって、有るものがない。ここは渋谷では無いのか。森で有るのは間違いない。それなら、私は無いものか、有るものか。つまり私が異常なのか、この現実が異常なのか。どちらでも同じことか。最悪なのは私の頭だけが異常であるという事だ。いや、そんな事は考えても仕方がない。私は私の脳を通してしか、現実を認識出来ないのだから。
 情報が少ない状態で、あまり考えてはいけない。どんな予測も的はずれである可能性が高い。
 今考えるべきなのは、体力をあまり消耗しないようにしつつ移動すること、周囲の変化に気を配る事だ。人の気配が現れるのを信じて。自分一人で解決するには事態が不透明すぎる。
 そうして二日過ぎた。ただ歩き続けるだけで、二日。何も希望の無い五〇時間は、永遠だった。逸終わる幻なのか。
 脇腹の痛みは不思議と治まったが、代わりに全身が疲労していた。それにずっと何も口にしていない。食事を二日ぐらい取らなかった経験は、ある。しかし水を一滴も口に出来なかったのは、初めてだ。
 こんなに人の体は脆いものか。極度の渇きで血まで干上がる。血管が細まって、体が一回り縮んだような気がする。歩き続けたために、足の裏と膝が痛い。安物の靴が、破けそうだった。靴を失ったら、裸足で歩き続けなければいけない。細かい木片が散らばり虫が這い回る地面を、裸足で踏むのは危険だ。
 そもそも、もうこれ以上歩き続けられそうにない。そう思うと、立っていられなく、なった。膝が折れる。
 二日間で何回も同じようなことを考えた。地面に倒れ込み、このまま目を閉じたら何が起こるのだろう。少なくともこれ以上疲れない。
 お腹が空いた。
 動かずにいれば、多分死ぬ。
 先ず間違いなく、死ぬ。元の所に戻れる見込みも無い。根拠のない希望は絶望に等しい。
 助かるには、まず人だ。誰かに助けを求めないといけない。でも、倒れていては人里に辿り着く希望も無い。歩かないと。歩くには体力が必要だ。体力が回復するには何かを食べなければいけない。でも何も持っていない。虫や、木や草は食べられるだろうか? もっと極限状態になったら、そうしよう。今はまだ、毒があるかも判らないものを口には出来ない。
 今こそその極限状態か? でも、まだ二日だ。何も食べなくても、一月ぐらいは持つはずだ。いくら歩き回っているからと言って、そんな簡単には死ぬものか。
 立たないと。立って人を探さないと。意味もなく死にたくない。指がもぞもぞと地面を引っ掻く。誰か!
「ああああああ!」
 異常が起きてから、初めて声を出した。それは何の意味もない、動物の咆吼のようにしかならなかった。
 自分の声が森に木霊する。木々の間から小鳥が飛び立った。
 何を言えばいいのか判らない。ただ咽と目の奥が熱く、痛い。そこから何かが溢れ出しそうだ。でもそれすら、枯渇して出てこない。
 どうしようも無いんだ。もう何も全て現実というものは。訳がわからない。何でこんな目に遭うのか。理解出来る理由なんて一つも、いや、理由があるばかりが現実ではなくて、そうだとしても、落ちついて黙っていられる状況じゃない。どうしたらいい?
 これ以上に良い判断は、有るのか? 有ったのか? 歩き続ける以外に? その前は? 見知らぬ子供を身を挺して庇うなんて馬鹿げた行為だったのか? それが原因か。ここに飛んだ。判るか。そんなもんが。そんな理論は知らん。しかし子供を助けられたのは、素晴らしい事だ。今私がここでのたれ死んだってその意味は変わらない。なら今のたれ死んで良いのか? 嫌だ。だいたい、本当に子供が助かったのかどうか、見てないし。それを見届けたら死んでも、死んでも……死んでも、死んでも、悔いは、そうだ。多分、無い。
 それを知るまでは、死んでたまるか。
 あそこに戻らないと。渋谷の、ハチ公前改札を出たすぐの、巨大な広場、その端からの交差点。夏場のクソ熱い、アスファルトの地面。暑苦しい呼吸を繰り返す他人の群れ。誰かの下手くそなギターと歌。駅の上の興味のないアーティストの巨大な顔写真。109の前の浅黒い肌の人間。カラオケから流れ出る集団。気になるドラマのラッピングバス。優と浅海。一緒に見る予定だった舞台のチケット。その後買う予定だった服。人を掻き分ける悲鳴。小学生ぐらいの子供。刃物を持った痩せた男。振り上げる。それが現実、現実、現実の色。体内の血が逆巻いた。持っていた鞄を、男に投げつけた。走り寄り、子供と男の間に入り、腹を、引き裂かれ、悲鳴! 青い空に響く、無数の他人の悲鳴! それから? それから、そこへ、戻らないと!
 走っていた。出口は知らない。考えたって判らない。走っていた。前に、森に足を取られ、転びそうになりながら。自分の激しい呼吸の音しか聞こえなくなった。
 やがて俄に目の前が明るく変わる。木々が晴れた。白い砂の敷かれた地面。左右に広がる空間。
 道だ。人が通る道だ。誰か!
 その下り坂の向こうから、まがえる事なく、人の声が聞こえる。足を引きずり、そちらへ向かった。
 人影だ。数人が、こちらに向かって歩いている。何かを話しているが、聞き取れない。全員一様に深緑一色の服を着ている。その姿が陽炎に揺らいでいる。
 その内の一人が、私に気がついた。助かる。これできっと助かるはずだ。
 いいや。
 サーッと背筋が寒くなり、息が詰まった。彼らが手にしているのは、何だ? それを注視し、栄養状態の悪い脳で認識するのに、鈍い時間が必要だった。
 あれは、あれは生首じゃないか? 血こそ出ていないものの、あれは、切り取られた首じゃないか。それとも精巧に作られた、人形か? いや、本物に見える。本物の人間の一部品だ。なんでそんなグロテスクなものがこの平和な世に存在する。
 わけがわからない。炎天の空の下、都会の真ん中で引き抜かれたナイフの照り返しを、思い出した。目の前が真っ暗になる。

 藤田孝は半月ほどの間、一言も口を利かなかった。無理もない。己の置かれていた状況が、何の前触れもなく一変したのだ。いや、あの日腹を刺されたのが、前触れと言えば前触れだったのかもしれない。
 その刺された傷も、今はすっかり痛みが治まっている。とはいえ、不思議なことに彼女の体に残っていたのは痛みだけで、傷口は存在していなかったのだが。
 最後の力を振り絞って森から抜け出した孝は、道の向こうからやって来る数人の青年たちを目にしたところで気を失った。数日間にわたり山の中を彷徨っていたことによる体力の低下と、その時目にしたものへのショックの両方が、その原因だった。彼女の前に現れた青年たちは、その手に人間の生首を持っていたのである。孝の見間違いではなかった。確かに彼らは、戦場から引き上げてきたばかりで、勝利の証として敵の首級を持ち帰っている途中だったのだ。
 気を失った孝は彼らに保護された。意識のないうちに彼らの根城に連れ帰られ、看病を受けていた。彼女が目覚めたのは、それから三日ほど経った、涼しい真夜中であった。
 ここはどこだ? 目覚めた彼女の周りは、ほぼ完全な闇だった。何やらざらざらと肌触りの悪い寝床に寝かされているのは、判る。現代に生きていた彼女には、麻の寝具は馴染みのない感触だった。だが、それがどうやら人の寝床らしいと判ったのは、気を失う前にてっきりどこかの田舎に飛ばされたのだと思いこんでいたからだ。飛ばされた――そう、飛ばされた。
 意識が覚醒してくると、自分の身に降りかかった変異を思い出す。
 彼女は、数日前は東京の渋谷に居たはずなのだが、ふと気がつくと深い山の中に立っていたのだ。まさに、自分のあずかり知らぬ何か不思議な力によって、遠くへ飛ばされたようなものだった。
 目を覚ましたここも、恐らくは東京ではないだろう。どこに行っても人口の灯りがまぶしい東京には、こんな深い闇はないし、それに何所からか吹き込んでくる草木と土の濃い匂いも、東京にはないものだった。
 まだ悪夢にいるらしい。そう思うと、体を動かさないといけない、と思った。夢の中で無理に体を動かせば、現実でも体が動き、眠りから醒めることがある。彼女はそれを実行しようと思ったのだ。
 そろそろと腕と足を動かす。すると、体の節々が痛んだ。山の中を歩き続けたことを思い出す。筋肉の痛みの原因は、恐らくそれであろう。あの彷徨った数日間が、どうやら夢ではないらしいと気がついて、彼女は泣きたいような気持ちになった。
 だがめそめそと泣いていても仕方がない。体は痛むが、動けないほどでもなかった。彼女は慎重に、慎重に寝床から身を起こし、暗い闇の中に立ち上がった。
 どんな深い闇でも、ずっと見つめていれば目がなれるものだ。彼女の視界は次第にうっすらと灰色がかって浮かびあがり始めた。微かに自分の居る部屋の枠が見え始めてくる。
 随分古びた建造物だ。まだはっきりとは見えないが、鼻にはっきりと感じる木の匂いが、ここが木造の屋敷だということを伝えてくる。
 左に首を動かすと、上半分に格子のはめられた木戸が見えた。格子の部分には、ガラスも障子も張られていない。ここから外の風が入り込んでいたのだ。
 戸の外は、どうなっているのだろう。
 不安が強かったが、しかしじっとしていることも出来ず、彼女はその木戸から外に出てみることにした。
 近寄って手を掛けると、薄い一枚の戸が、随分重く感じられる。よほど体が弱っているのだ。
 戸を開くと、縁側に出た。部屋の外をぐるりと囲む通路のように、縁側が設けられているらしい。これも、彼女には馴染みのない形式の構造だった。
 風が縁側に立った彼女の体を撫でる。夢の中とは思えない、リアルな感覚だった。
 しかし、目の前には何所までも深い自然に囲まれた風景が広がっている。森を切り開いた広場のような土地に、彼女が今立っているような木造の古い建物が幾棟も建てられているのが見える。
 その風景は夢のように見慣れないものなのに、肌に感じる風や匂いは本物だ。
 空を見上げると、細い月と、今まで見たことがないような沢山の星が輝いていた。

落乱 目次

index