流され損
二人が言い争っている間に、いつの間にか嵐が近づいていた。空が薄暗く陰り、風がびゅうびゅうと水面を走り始めている。風はその小さな船を叩き始めたのだが、長々と言い争っている二人は、気づいている様子もない。
小舟に追いやられた若い船頭は、少し前に雲行きが怪しく変わったことに気がついてはいた。しかし、邪魔をしてはいけないとの言いつけを守って、何も言わずに、隣の屋形船を眺めていた。
いや、実を言うと、あえて何も言わなかったのだ。いつまでも子供のように言い争っている二人に呆れ返っていた。多少でも海が荒れて、揺れる船上で打ち付ける波を頭から浴びてみれば目も覚めるだろう、と思っていた。
荒れ始めた海の上で、二つの船が並んでいる。一つは質素な小舟であり、釣りの道具などを載せている。あまり沖には出ずに、釣りを行う漁船だ。二、三人が定員といったところか。
一方はそれよりも少しばかり大きな船で、ちょっとした屋形が乗っている。おそらく屋形の中は、三畳ぐらいの広さはあるだろう。漁のための船ではないのは明らかで、物好きが海上で遊ぶための遊覧船といった風体だ。きらびやかな装飾などがあるわけでもないが、屋形も船体も綺麗な流線型で、どこか女性的な姿形である。
その二つの船はぴったりとくっついて、波の上を漂っている。くっついているのは、お互い流されて離れ離れになってしまわないように、縄で縛ってあるからである。
つまりどちらかがひっくり返れば、一蓮托生だ。
船頭は雨の降り始めた空を見上げ、それからやかましい屋形の方に視線を戻した。
いい加減に邪魔をしないと、命が危ない。
「姐さん、姐さん、海が荒れてきましたよ。そろそろ引き返しましょうかァ」
それまでの言い争いは聞こえていなかったようなふりをして、船頭は立ち上がりながらのんきな調子で言った。
と、その時、どん、と船底を突き上げる衝撃があった。どうやら間の悪いことに、海流にでもぶつかったらしい。
船頭は少しよろめいて、小舟の縁に取り付いた。少し、ですんだのは、海流にぶつかったのが、隣の屋形船だったからだ。
屋形船の船底が、ミシミシと軋みを上げた。
同時に、屋形の中から女の悲鳴があがる。浸水でもしているのだろうか、屋形船はすでに少し傾き始めていた。
船頭は素早く立ち上がり、二つの船を繋いでいる縄を切り落とした。隣の船を見捨てようというわけではないが、一緒になってひっくり返るのだけはごめんだった。
次第に強く打ち付けてくる雨の中、船頭は櫓を取り、すぐに屋形船との距離を取り始める。
そうしている間にも、あっという間に屋形船は風に煽られ、天と地を逆さまにしてしまった。そもそも、こんな沖合に出てきていいような作りの船では無かったのだ。
若い船頭は、ひっくり返った船から自分の雇い主とその客を助けなければ、と焦り始めた。しかし海は嵐、もたもたしていると、自分の乗った小舟も沈みかねない。
泳ぎは得意だ。晴れているなら、沈んだ船から二人を引っ張り出して、この小舟に戻ってくるのも朝飯前だっただろう。
しかし、と考えているうちにも、白い波が、小舟の中にも打ち寄せてきた。
もはや仕方がない、そう念じて一人引き返すのを決めた時、波間から白い影がふたつ、浮かび上がった。
果たして男と女だった。
「おい、小僧! ぼうっとするな、手を貸せ!」
男は、ひっくり返った屋形から何とか女を抱えて逃げ出し、水面まで泳ぎ切ったのだ。
船頭はびっくりしながらも、男に向かって慌てて櫓を漕ぎ、さっきまで二つの船を繋いでいた縄を男のほうに向かって投げ飛ばした。
そういうわけで、何とか三人とも嵐の海に放り出されるには至らなかったのである。
とはいえ小さな小舟で嵐の中を漂流することになってしまったのは、間違いない。
男に抱えられて命の助かった女は、真っ青な顔でぐったりとうなだれていた。が船が転覆してからも、ずっと意識はあったようだ。
海の上にいると、色々な拾い物がある。だだっ広い海のことだから、常に何かしらを浮かべて漂わせている。
海賊なんてものをやっていると、その拾い物も大事な資源になる。資源とは平たく言うと金目の物だ。
昨日の夕方、少しばかり海が荒れた。その頃、兵庫水軍らは皆揃って陸の上だったため被害は少しもなかった。陸に繋いでいた船の帆ひとつ、折れることもなかった程度の嵐だったのだが、しかし嵐は嵐、海の流れが短い時間でも変わっている。
そういう時は大抵、なにか拾い物がある。
沖に出ていた漁師の船とか、小さな渡し舟とかそういう漂流物だ。
喜び勇んで水軍の若い衆がそれを探しに行った。で、無事発見となったわけである。小ぢんまりとした漁船だった。
勝手に自ら船出する船はいないわけで、当然ながら乗組員付きである。
男二人と女一人。若い船頭はともかく、女は海女でもないようだし、男も漁師でもないようだ。小さな漁船とは不釣合いの、ちょっと変わった組み合わせに思えた。