コバンザメくんの話

 この間綾部くんと話をしていたときに、なんでその話になったのか覚えてないけど、久々知くんの話になった。
「尊敬しているというか」
「しっかりしてるしね、成績もいいらしいしね、武術も得意だって」
「いや、尊敬しているというよりも」
 一日の授業が終わって、夕食の時間を待っている暇な時間だった。食堂に晩ご飯を食べに行く前にぼけーっとしていたのだ。課外活動とか宿題とか委員会とかのない忙しくない日だったから、これはもう当然の成り行きだ。
「そういう話じゃないんですよ」
「うん?」
「勿論そういうのも尊敬しますけどね、そうじゃなくて」
「うんうん」
「タカ丸さん、久々知先輩の家の話聞いたことあります?」
「あー、六年の人たちが言ってたのは、聞いたよ。噂。苦労してるんだよねえ、全然表に出さないけど、そういう風なのっていうかさ、自分では絶対言わない感じ? すごく苦労してる感じだよね」
「悲劇ですよ。子供の頃に戦で一族が没落、その時に両親も裏切り者らの手にかかりお亡くなりになっているし、他にも命を落とした者数知れず、と。それで先輩はあの年で生き残った一族の次期統領ですよ。むしろ実質的には今もトップでしょう。一族の希望を一身に背負ってるんですよ」
「すごいよねえ。おれなんかごく普通の町人の出だからさ、そういうの想像もつかないな」
「タカ丸さんは忍者の出身じゃないですか」
「でも知らなかったから。ほんとに普通に髪結いになって、普通に町の中で暮らしていくんだろうなーって思ってたんだ」
「じゃあ、わかりますよね」
「いやわかんないって」
「いやわかるに決まってます。憧れますよ」
 綾部くんは利き手の右拳をぐっとにぎって、遙か彼方を見た。視線としては話してる相手のおれの方を見てるんだけど、しかし遥か遠くを見つめているのだった。
 おれの背後は壁なので、壁を見つめているわけではないことを一応断っておく。
「久々知先輩にです」
「ああ、そういう意味」
「ぼくには無い人生を歩んでいます」
「人生は人それぞれだからね」
「そういう意味じゃなくて」
 これ多いなあ。今話してて、既に二回言われてるじゃん。うまく会話が成立してないね。おれ、実はあんまり空気読めないのかな。
 人と話すのは得意だと思ってたけど、綾部くんと喋ってると自信なくす時あるな。あと滝夜叉丸くんと喋ってる時もそういうのある。
「ぼくは幼少の頃から思っていたんです。この人生、つまらないなあと」
「いくつぐらい?」
「三つになる頃には既に」
「早熟だね。もうちょっと、人生経験積んでから判断したほうが良かったと思うよ」
「色々考えた結果、忍者になろうと思って忍術学園に通うことにしました」
「自分で決めたんだ。ご両親は」
「学費に困らない程度には金がありましたので、勉強したいと言ったら喜んで賛成してくれました」
「いいご両親だね」
「タカ丸さんのところもそうでしょう。それは恵まれていました。しかし面白くはない」
「親を面白さで判断してはいけないよ」
「ぼくがつまらないと思ったのは両親のためではなくて、人生のためです。だからぼくは人生を変えるべくここに来たんですが、一向に変わりません。普通に武術と学問を学びながら奉公しているのに毛が生えたようなもんじゃないですか」
「ん、まあ……でも忍者って特殊な商売だし、将来的には変わるんじゃないかな。将来ってほどじゃなくても、六年生もぼくらとは全然違う課題やってるし」
「与えられた課題じゃつまらない」
「ええー」
 それじゃまず忍術学園に入学したこと自体間違いじゃない? 矛盾してないかなあ。
「学園に入ってよかったことも勿論ありますよ。何しろトラップと落とし穴の充実感を知ることができましたから」
 落とし穴ってトラップの中に含まれないかな? そこに充実感があるの? それは既に結構変わった人生じゃない?
「ツッコミが追いつかない」
「真面目に聞いて下さい」
「えっ」
「しかし待っているだけじゃ変わらない……そう気がついた時、あることを思いついたんです」
「はあ」
「面白い人生の人の人生に、混ぜてもらおうと」
 なんと言えばいいのか……。
「ぼくは久々知先輩を待っていました。壮大な人生の人です」
「待ってるだけじゃ駄目なんじゃ……」
「待っていたのではなく、すでに居たんです。気がついていなかっただけなんです」
「うん……そうだね、久々知くんは自分で自分の人生語ったりしないからね」
「それまで存在に気づいていませんでした。噂に聞くまで」
「……うん。課題とかで一緒にならないと、接することない先輩っているからね……」
「噂に違わぬ人物でした。壮大な人生に見合った実力と、度胸と懐の広さがあります」
「あのね、久々知くんにそれ言っちゃ駄目だからね。さっき綾部くん自分で言ってたけど、ほんとに悲しい過去なんだよ。面白いとか壮大とか言ったら、あんまりにも人情がないよ」
「判っています」
 ほんとかなあ。そこまで非常識じゃないと思うけど、いや、結構ちゃんとした子だとは思ってるけど、でも何言い出すかわかんないからなあ。
「この人はすごい。ぼくは本当に感動したんです、その人生に。だからこの人の人生に混ぜてもらえば、ぼくも平凡でない人生を歩んで行けると」
 綾部くんの目は日頃見ないような希望にあふれた輝きを放っているのだった。
「綾部くん、それはだめだよ。全然だめ。それじゃまるっきり人任せじゃない。それはね、完全に少年向けの不良物のお話に登場するコバンザメくんの思考だよ」
「コバンザメ?」
「自称舎弟くんの。町内一とか学園一とかで喧嘩が強い兄貴に憧れて舎弟を名乗ってるんだけど、実際は舎弟と認められてないんだよ」
「久々知先輩は舎弟取ってないですかね?」
「取ってない絶対取ってない。考えてみなよ、綾部くんが久々知くんに舎弟にして下さいって言ったらなんて答えると思う?」
「どうなるんですか?」
「『何言ってるんだ、喜八郎。おれは舎弟なんかいらないよ』」
 似てたかな?
「ふーむ、似てないけど伝わりました。じゃあぼくは正に自称舎弟のコバンザメくんですね」
「開き直っちゃだめだ! いい、綾部くんの発想は三下の発想だよ。ザコの! 味方側のザコの発想! 味方側のザコは物語の導入にしか利用されないんだから」
「例えば」
「例えば。綾部くんの幼なじみのさっちゃんの家の道場に道場破りがやってきて」
「幼なじみはいません」
「例えば。さっちゃんの家は門下生は多いけど近所の子供ばっかりの弱小道場だから道場破りに対抗できる門下生は、綾部くんとさっちゃんのお父さんぐらいしかいないの」
「さっちゃんの家はお母様の方が強いですよ」
「そうなんだ……でも道場は女人禁制だったからしょうがないよ」
「さっちゃんも強いのに」
「そうそう、最初は『あたしも戦う!』とか意気込んでたけど、それは女の子には危ないから止めたよね」
「ぼくは止めませんでした」
「止めてあげて! だからあと三人……なんか話の流れで、ちゃんと五人揃えて試合することになったんだよ。で、綾部くんは学園の誰かに助太刀を頼みに来たわけ」
「タカ丸さんと滝夜叉丸と三木ヱ門で三人揃いましたね」
「勝てないよ! 相手は各地を転々とした実力派道場破りなんです! 勝てない相手なんです!」
「先鋒はタカ丸さんです」
「そうだろうね! 鋏使っちゃだめだったら二秒で負ける自信あるよ!」
「すみません、うちは剣術の道場なんです」
「じゃー全然ダメだよ! おれがザコじゃん! そもそもこの話久々知くん出て来てないしね!」
「この後久々知先輩の出番じゃないんですか?」
「出ないの! やりなおし」
「はい」
「えっとね……だから、ザコのコバンザメくんは、強い兄貴に憧れているわけだよ」
「まず前提ですね」
「強い兄貴は、まあ正義感も中々あるわけ。表立って人助けをしまくるような人じゃないけど、困っている人がいたらそっと手を差し伸べて、お礼を言われたら『礼を言わるほどのことじゃありません』と立ち去る人なわけ」
「その通りです」
「か弱い女子供とかがいじめられていると勿論助ける。さりげなーく、悪者はボコボコにして、助けた女の子から顔を見られる前にすっとどこかに行ってしまう、当然名乗りはしない……ザコの舎弟くんはその背中に憧れるんだよ」
「カッコイイですね。それです。そういう感じです」
「だよね!」
「でもさっきからぼくのことザコとかコバンザメとか失礼じゃないですか?」
「今!? それは、例えばの話だから」
「例え話ですか」
「そうだよ。だってほら……だってそうじゃない……その……」
「はっきり言って下さい」
「その……物理的じゃなくて……姿勢の話だから……心の」
「なるほど」
「うん。え」
 いいんだ。伝わるんだ。
「続きはどうなるんですか?」
「えっとねえ、そんな兄貴は敵も多いわけ。弱いものを助けていると、自然と悪者に目を付けられちゃったりするんだよ。否が応でも町のカタギじゃない奴らに睨まれちゃうようになる。でも兄貴は強いけど、積極的に喧嘩をするような性格じゃないから、できるだけ穏便に行きたいよね。しかも悪者は数だけはいるから、勝てるかどうかわからないよ」
「勝てますよ」
「そこはまだ、話の最後だから。でもそんな感じで、コバンザメくんは息巻いてるわけだよ。あんな悪者やっつけちゃって下さいよーと」
「命知らずですか? 同情できませんね」
「でもコバンザメくん、自分でやろうとは思ってないんだよ。コバンザメくんだから。兄貴にむかって、どうしてやっちまわないんですかと言っちゃうの」
「やっちまうべきです」
「『そんな風に喧嘩ばっかりしててもどうにもならないよ。町で暴れると町の人の迷惑にもなるだろう。向こうもこっちが派手にやらない限り手を出してくることはない。お前も奴らに手を出すなよ』と、兄貴は警告するんだけどねぇ……」
「腑に落ちない」
「そうなんだよ……悪者は町の女の子に狼藉を働いたりしちゃってるんだよ。許せないよ。コバンザメくんは、悪者が女の子を取り囲んでいるところに遭遇するんだ。ごめんなさい、と何も悪くないのに泣いて謝ってるその子を見ると、兄貴の警告なんてどっかいっちゃうよね。『やめろ悪者! ぼくが相手だ!』と怒りに震えながら」
「その声が裏返っているのは誰の真似ですか?」
「……コバンザメくんは架空の存在です」
「それは良かった。では続きをどうぞ」
「気合が入りすぎて声が裏返っちゃうようなコバンザメくんは、ザコなので喧嘩はめちゃめちゃ弱い。強かったらコバンザメしないし。だから悪者にはぜんっぜん敵わなくて、『コノヤロー』と殴りかかった一発目から返り討ちにされてしまう。ぶん殴られて吹っ飛ばされた瞬間、兄貴が『やめとけよ』と言っていたのを思い出すけど、泣いてる女の子を守るためなら……とね、兄貴だってこの場合は助けに入るでしょ。彼は兄貴のようになりたいんだよ。泣いている女の子だって助けられるような男に……。そう、そして再び立ち上がる!」
「おお」
「再び女の子に伸びる悪者の魔の手。『待て!』とふらつきながらも拳を振りかぶって戦いを挑むけど、また一瞬のうちに殴り飛ばされて吹っ飛んでいってしまう。悪者は一人じゃない。吹っ飛ばされたコバンザメくんは、悪者たちに取り囲まれ殴る蹴るの追い打ちを受けて、とてもじゃないけど立ち上がれない。群れないと悪事も働けないような奴らだけど、喧嘩の仕方はコバンザメくんよりずっと達者だからね。そもそもコバンザメくんはすごくものすごく弱いし、一般人と比べても断然弱いし」
「死にます?」
 刃物のような真剣な目で聞いてきた。怖い! 死にたくない!
「死なないよ! 例え話だってば許して!」
「コバンザメくん、このままだと死にますよ」
「ええっそっち?」
「だんだん他人と思えなくなってきました。死にませんよね?」
 最初から他人じゃないというか綾部くんのつもりで話してたつもりだったんだけど、いや、っていうかさっき綾部くんは自分の話だって認識してたよね?
「殺したら許しません」
「死なない死なない。でも、コバンザメくんはボロボロになりました。でも女の子の涙が視界に入って、最後の力を振り絞って立ち上がり、悪者の中でも一番強そうな奴に向かって突進! 顔中泥だらけ、血だらけになっても彼の魂は挫けたりしないんだ。せめて一発でも、殴って、殴ってやって、女の子が逃げる時間だけでも稼ごうと! ……思っても、思うだけじゃうまくいかないんだよ。やっぱり拳が敵に届く前に、殴り飛ばされてかつてないほどぶっ飛んで地面に叩きつけられる。『もっと痛い目見ねぇとわかんねぇか!? あぁ!?』と悪者が」
「悪者の真似うまいですね」
「え。ほんと!?」
「本物みたいですよ」
「そうかなー」
「ええ。とてもじゃないですけど、真似したくない感じですね」
「えっ。もしかして褒められてない?」
「いいえ、そこそこです」
「そこそこ」
 そこそこって、なにが? 綾部くん無表情すぎてどういう意味で言ったのか全然判んないよ。
 本当のこというと、無表情に近いから、ちょっと怒られてるような気がしてくるよ……。
「続きをお願いします」
 叱られる要素はないはずだ。さっきからコバンザメとかザコとか弱いとか言っちゃったけど、それは綾部くんのことじゃないし、綾部くんも納得してくれたしね。綾部くんはザコでも弱くもないのはわかってるからね。だから叱られているわけじゃないはずだ。l
「その一番強そうな悪者はさ、でかい。身長が百九十センチぐらいある。現代的に尺貫法で言うと六尺三寸ぐらい。しかもすごい筋肉質。だからもう壁だよ壁」
「室町の男性の平均身長は百五十センチ半ば、五尺ちょっとです。ずいぶん非現実的な設定にしましたね」
「少年向けのお話はこのくらいがいいんだよ。絶対いないって設定でもないし、敵は強いほうが興奮するでしょー。」
「一理あります」
「うんうん。だいぶ話はそれだけど、そんな壁がね、吹っ飛んだコバンザメくんの方に近づいてくる。何が起こるか、判るよ。これは殺される、とバカでも判る」
「コバンザメくんは実は頭も悪いのですか」
「頭はそこそこいいの。激弱でも一応兄貴の弟分で、危険な喧嘩も経験してるから。自分では戦わないけど、ザコとして危機回避能力は恐るべきものがあったね。でも今回ばかりはかなりボコボコにされて、朦朧としてきてた。ちゃんと物事が考えられないぐらいだったんだ。判るかな」
「判ります。経験あります」
 あるんだ。授業とかでかなあ。怖いなあ。真剣に頷いてるのがホントっぽいなあ。
「その状態でもやばいって判ったってことだよ。ああ、死ぬ。女の子も助けられなかった。兄貴の言うことを聞いておけばよかった。『死ね』とまんまのことを悪者は言った。かすれた重低音で言った。そんなこと言われるといよいよ死ぬかと思ってしまう。何でカッコつけて立ち向かっちゃったりしたんだろう。自分が喧嘩弱いってことぐらいわかってたのにね。近づいてくる、壁が。今までのパターンから考えて、また蹴り飛ばされる。胴を蹴り上げられる。肋骨が折れて肺に刺さって血を吐いて死ぬ。本当の衝撃が来る直前まで、そんなことばっかり頭に浮かんで――」
 そしておれは風を切る音を聞いたのだった。
「助けはまだですか!」
 急に猛然と腕が二本伸びてきた! 綾部くんとおれの間にあった机一つ分の距離を一瞬の速度で風を切った二本の腕!
「いたたたたたやめてやめて! 肩を握りつぶすのはやめて!」
 綾部くんは日頃から鍛えたバカ力でもっておれの肩をつかんで前後左右にどっかんどっかん揺らし目が回る! 三半規管が一瞬のうちにやられた!
「早く助けを呼んで下さい!」
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い助けて世界が回転している!」
 とどまるところを知らないバカ力が天動説を実践してるから誰でもいいから何とかして!
「何事だああああ」
 すごい勢いで教室の戸が開かれた。教室が揺れた。
「喜八郎お前か! なんだ何の騒ぎだ! 室内に落とし穴はやめろ!」
「床板は掘れない」
 なんということだろう急に現れた現実的な侵入者の存在そのものによって冷静になった綾部くんが解放した大地の自転は慣性の法則に留められた運動が万有引力との綱引きによって力学的エネルギーを拡散していくことで時間軸の移動を伴いながら自ずと動きを止めたにもかかわらず頭痛が痛い。
「タカ丸さん、一体何ごとの大事件が」
「その声は滝夜叉丸くん」
 視界が一定方向に移動していくので滝夜叉丸くんの姿が視界に留められない。眼球が自転しているからで間違いない現象だ。この現象の名前を、久々知くんに後で聞こう。物知りだから多分知っている。
「滝夜叉丸、コバンザメくんがピンチなんだよ」
「はぁ?」
「やくざ者に支配された荒廃した町の片隅でコバンザメくんが殺されるか否かの瀬戸際だったんだ」
「はあ」
「ザコでクズで頭が悪いけどコバンザメくんは悪いやつじゃない。町で出会った女の子を助けるために命を投げ出すような、立派なやつなんだ。それをタカ丸さんが殺そうと」
「してないよー」
「はあ。で、タカ丸さんが助けを呼んでいたのは? 曲者などは?」
「いないよー」
「悪者がいたんだ」
「いないよー」
「……なるほど」
 三半規管の混乱から回復した視神経で滝夜叉丸くんを見てみると、眉間にシワを寄せて腕を組んでいた。滝夜叉丸くんはそして深く頷いた。なるほど、四年生ともなるとこのぐらいの情報ですべてお見通しということか。すごいすごい!
「うむ、さっぱりわからん。私にわからんということは、この世の誰にもわからない。そんなことを考えるのは時間の無駄だ」
 しかしながら滝夜叉丸くんは爽やかに髪をかきあげ、誇らしげにそう言ったのだった!
「えっおかしいよそれは」
「おかしくはない。だいたい喜八郎の言うことに筋の通った意味などない。考えるだけ無駄だ」
「失敬な」
「おれの発言は?」
「夕食、遅れますよ」
 流された。つまり要するに、綾部くんの言動に比べたらおれの短い証言などなんの価値もないというそういうことですね。
「今いいところだったんだ。ちょっと滝夜叉丸も聞いてよ。聞けよ」
「喜八郎ごときに命令される私ではない。夕食だ、食堂だ。今日の日替わりメニューは、メインに唐揚げと秋の味覚茸と栗とおまけにかしわ入りの炊き込みご飯。吸い物は昆布出汁であっさり目に仕上げた上に今日水揚げされたばかりの鯛の身入り。香の物は五回も付け替えを行った最高級ラッキョウのたまり漬け。しかし昨今の荒れた社会情勢の煽りを受け、原料高騰により数量限定との噂だ。決して遅れてはならんのだ」
「おいしそう! 急ごう!」
 そういうまっすぐ胃に来る描写は我慢出来ないよね。一日の終わりには当然お腹はぺったんこだよ。
 おれは一も二もなく猛然と立ち上がった。
「だめです」
「わー!」
 つるっと滑って景色が綺麗にスライディング。ちがうスライディングしたのはおれ。後頭部の大衝撃。
 でも、この学校に来てからだいぶ、身体的なダメージには慣れてきたよね。精神的な衝撃にもひるむことも少なくなったよね。
 転んだのは綾部くんのせいです。
「おやまあ」
「汎用性の高い決めゼリフで許されると思ったら大間違いだから!」
 立ち上がった瞬間に、上の衣の裾を引っ張られたのだった。考えてみると判ると思うけど、立ち上がろうとした瞬間とか、不安定な体勢になるから人間はバランスを崩したりしやすいんだよ。座っている、立っている、の動きと動きの間の部分。敵に狙われやすい瞬間でもある。だからそういう時は無意識に動かずに、しっかり重心を揺らさないようにしなさいって、授業で習った。実践できてない。ここだけの話、今のところできていたことはない。
「こんな大惨事になるとは露程も思わず」
 ヨヨヨ、と泣くフリでうつむいて袖で顔を隠し……肩が震えている。笑うなよお。
「どうしたんだ、いったい」
 滝夜叉丸くんに呆れられてしまった。
「まあ、とにかく滝夜叉丸も座って」
 綾部くんの泣き真似も笑いも二秒もたなかった。なんか面白いなあと思うと、すっ転ばされた理不尽さも、なんか思い白いなあ、の中に含まれてしまうのだった。
「タカ丸さん、遅れてやってきた滝夜叉丸のためにこれまでのあらすじをお願いします」
「いや私は別に遅れて来たわけではないぞ。その認識はおかしい」
「どこから?」
 おれは後頭部をさすりながら、再び席に戻り、仕切り直しとなった。なんだかんだと言いながら、滝夜叉丸くんも座り込んでいる。
「これまでのあらすじ」
 おれはもったいぶった咳払いを一つ、
「やっぱりそれはいいです。続きをどうぞ」
「えー」
「私を置いて話を進めようとするんじゃない」
「聞いてればだいたい判るよ。お約束のみで構成された何の特徴もない話だから」
「いや、そもそも話とは何のことなのか……」
「聞いてれば判るよ」
 なぜか有無を言わさない綾部くんだった。
 そのわけのわからなさに顔をひきつらせる滝夜叉丸くんだったが、明確なツッコミ閃かないようだ。一から十までわけわかんないと、何言っていいかわからないのはトーゼンのことである。だからおれは説明責任があると思うんだよね。
「おれはね、綾部くんに現実を突きつけようと思ったんだよ」
「タカ丸さんとさっきから妄想の話をしてるんだ」
「今の現実と未来の話をわかりやすくエンターテインメント的に解説してるんだ」
「妄想の中では女の子を守るために悪者に挑む少年なんだってさ」
「こういうのはリアリティが大事だからね」
「妄想の中でぐらい強くたっていいと思わない? でも今のところ最弱のザコの情けないにも程があるコバンザメくんが主人公なんだよね」
「主人公は別に居るんだけど、今ちょっとコバンザメくんがメインで動いてもらってるよ。そういう役割なの」
「悪いやつじゃないよ。今ちょうどボコボコにされたところ。で、続きは?」
「二人いっぺんに喋らないで下さいよ。全く聞き取れないのですが」
「だっておれが喋ってるのに綾部くんが」
「ああ、そうか。滝夜叉丸には無理だったか」
 綾部くん、にやっと笑いながらため息。なにそれ。
「んん? どういう意味だ」
「古くは聖徳太子、近代では土井先生が持つ特殊能力は、滝夜叉丸には備わってないんだね」
「は」
「同時に喋る十人、いや十一人の話をすべて正しく聞きとるという日本伝統の特殊能力さ。日頃自分は天才だと言ってはばからない滝夜叉丸だから、当然持っている特殊能力だと思ってたけど」
「わー土井先生って聖徳太子と肩を並べてるんだ!」
「ご存じなかったですか? 忍術学園七不思議の一つですよ」
「残り六つは?」
「あとで考えておきます。今は、聖徳太子や土井先生の足元にも及ばないぼくの眼前の滝夜叉丸のために再度あらすじを述べなければならない。いや、いいよ、滝夜叉丸。気にしないで。滝夜叉丸が聖徳太子や土井先生に及ばないことは、公然の事実だからね」
「な、な、な」
 額に青筋を浮かべてカタカタ震える滝夜叉丸くん。
 挑発の内容がアホすぎてすごくむかつくのは、すごく伝わってくる。
「この滝夜叉丸にそっそっそっそのそのようなアホな、いや戯言にも等しい挑発が通用するとお思いか」
「カッコよく言おうとしなくていいからさ。まあ実際、多少は聞こえただろ?」
「ん、まあ……」
「よし、再開。座って座って」
 半端な怒りのあまり半端に立ち上がっていた滝夜叉丸くんは、綾部くんになだめられてすごすごと再び座り込んだ。怒りのやり場とか呆れのやり場とか、どこにもない。ばかばかしすぎて胡散霧消。
「では、お願いします」
「やはり、まずはこれが何の趣旨の集まりなのかが知りたいのだが……」
「続き」
 強引に仕切りなおし。滝夜叉丸くんがぶつぶつ言っているが、それにかまっていては先に進めない。
 おれは再び咳払いをして、居住まいを正して話し始めた。
「えーっとちょっと場面を戻って、コバンザメくんが吹っ飛ばされたところから。リプレイです。死ぬかも、と思ってるコバンザメくんにちょっと洒落にならないような強そうな壁が近づいてくる。壁っていうのはね、悪者の中の一番強そうなやつが身長が百九十センチもあるからもはや壁にしか見えないっていう感じね。その壁に『死ね』とか言われる。コバンザメくんはもう当初の目的とか忘れる勢いで死の危険。迫ってくる悪者の顔はいかにも悪人の情け容赦無い、それどころか人をいたぶるのが何より楽しいというような、吐き気がするような凶悪な面さ。それがニヤーっといやらしく唇の端を持ち上げて、倒れ込んでいるコバンザメくんの前に、立ち止まった。『もうだめだ、もうだめだ……』コバンザメくんは、もうすべてを諦めたよ。でもその真っ暗な頭の中に、急に高い悲しい叫び声が飛び込んできた。女の子が、悪者の背後で叫んでたんだ。『もうやめて! その人は関係ないでしょ!? 私がなんでも言うこと聞くから、もう許してよ!』」
「なんとまあ」
「どういういきさつなのかどんな場面なのかもわからんが、女性に庇われるのは情けないな」
「女の子は真っ青な顔で、泣いてて、震えてるのに、コバンザメくんのために優しい勇気を振り絞ったんだよ。今日初めて出会ったばっかりの、言葉も交わしたこともない、禄に顔も見てない、でも自分のために立ち向かってくれた見知らぬ少年のために。『やっと素直になったじゃねぇか』邪悪な笑いを浮かべる悪者に連れ去られる少女……なんとかしてあげたいのに、もう指一本動かせない。コバンザメくんは、目に涙をいっぱいに浮かべて震える彼女に何もしてやることはできなかった後悔の中、さらに悪者の下っ端に四、五発の殴る蹴るのおまけをもらって、気絶した」
「サイテーです。却下。却下。却下します。展開を却下します」
 綾部くんがいきり立って机をばーんばーんと叩いた。
「落ち着け喜八郎。確かになんとも唐突で目覚めの悪い話だが、たかだかタカ丸さんの妄想だろう」
「妄想じゃないよ、例え話だよー」
「そうですとも。これはぼくの人生の岐路なんだってさ」
「はあ?」
 滝夜叉丸くんは盛大に首をかしげ、言った。
「全く意味がわからん」
 ごもっともである。これまでのあらすじを端折った弊害だ。しかしこれは綾部くんのための物語なので、滝夜叉丸くんが理解できなくても問題はないのだ。
「とにかくもうちょっと続くからね。で、コバンザメくんがボコられているのを目撃した人物がいたんだ。それは町の名も無き若者Aだった。Aは一部始終を物陰からこそっと見てて、悪者が去ってからコバンザメくんを助けに向かった」
「どうして殴られてる間に助けてくれなかったんですか」
「だって怖いんだもん」
「怖いのにじっと見ていたのですか?」
「助けなきゃとは思ってたんだよう」
「とんだチキンくんですね。こっそり見てて、危なくなくなってから来るなんて、タカ丸さん、あなたは卑怯者だ」
「えっ見てたのおれじゃないよ」
「だってこんな鮮明に描写できるのは実際に物陰から見ていたからに違いないです。だからタカ丸さんはチキンくんです。もちろん例え話で」
 なんてことだ役割を決められてしまった!
 強い衝撃がおれを襲った。さっき滑って転んで頭打ったより激しい衝撃だ。まさか、おれがチキンくんの役割を持つようになるとは。人生ってものはわからない。
「タカ丸さん、もっと怒っていいんですよ。ちゃんと怒ってやらないとアホハチローは理解しませんよ。それも間違ったことをした直後でないと効果がありません」
「猫じゃあるまいし」
「いい、いいんだ。今は耐える時だ。それにおれはちゃんと良い事をしたもん。コバンザメくんを背負って、ちゃんと学園に連れて帰ったもんね」
「忍術学園ですか」
「オフコースだよ、滝夜叉丸くん」
「タカ丸さん、キャラ変わってません?」
 滝夜叉丸くん、今日はやたら冷静だなあ。滝夜叉丸くんって、周りのテンションが上がると逆に自分は下がって冷静になっちゃうところ、あるよね。
「チキンくんが忍術学園にコバンザメくんを連れて帰ったのは、コバンザメくんが兄貴のコバンザメしてるって知ってたからだ。兄貴が最強に強いのも、だチキンくんは知っていたから、助けを呼ぶならこれ以上の適任はないと思ったよ。もっとも、兄貴が最強だっていう話は、いつでも学園の噂の的なんだけどね。なんかそういう世界観なんだよね」
「怪我の手当は?」
「もちろん兄貴の前に医務室に行ったよ。大怪我をして横たわるコバンザメくん。そこに兄貴がかけつけた。おれが呼んだんだ。そしてそこで、おれは事のあらましを兄貴に伝えたんだ。町で悪者が暴れている悪者が女の子に狼藉を働こうとしたときに、コバンザメくんが助けに入ったこと、でも残念ながらコバンザメくんはこのありさま、女の子は悪者の毒牙に……」
 ああ、どうしてこの世に悪い人間っているんだろう。どうしてみんな仲良く暮らせないんだろう。どうしようもないことだけど、悲しいなあ。という悲しい気持ちはこの物語にはどうでも良い要素だった。
「兄貴はなんて言ってました?」
「怒ったよ。静かに話を聞きながら、確実に怒ってた。短い相打ちを打つだけで、声を荒らげたりしなかったけどね。そして話を聞き終わったあと、こんなことを言ったんだ。『こいつは、喧嘩はとんでもなく弱い奴なんだ。だけど度胸のある奴だ』と。そしてその夜、兄貴は学園から人知れず抜け出した。とまあ、こういうわけ」
「はあ、そうですか」
 反応に乏しい返事は滝夜叉丸くんだった。だからなんだ、ということだ。しかしそれも当然で、コバンザメくんの活躍は物語の導入部分のみなので、導入の部分だけではお話として成り立たないのだ。
「これが物語の導入部分という役割を果たすばかりのコバンザメくんという人生です」
 おれは一つの物語を語り終えた充実感で、やや高揚しながら結びとした。
 ちらっと……こう、ちらっと、綾部くんをの反応を横目で窺わずにはいられなかった。まあ眼の前に座ってるから横目では無理なんだけど。
 綾部くんは、眉間にシワを寄せて真剣に話を聞いていた。そして、力強く頷いたのだった。よし。
「中々いいじゃないですか、コバンザメくんの人生」
「えっ! 全然よくないよ。これからが話の本題だけどコバンザメくんは一切出てこないんだよ! 大怪我して退場、で導入の役割終わり。後はこの後の悪者をやっつける部分には全然関係ないの」
「チキンくんは?」
「チキンくんは情報提供するだけの通行人Aだから以後存在も忘れられる」
「なるほど」
 にやっと笑った。
「少なくともチキンくんには勝ちました」
 チキンくんの負け? いやでも、チキンくんにはチキンくんなりの人生があって、別にここでこの話に加われないからといって全然負けとかそういうのはないはずだし。全然負けてないっていうか。ほんと勝ち負けとかそういう趣旨はないし。
「それで続きは?」
「えっないよ。だからね、これはおれが最初に言ったように、コバンザメくんじゃ物語の導入部分で悪者にボコられるぐらいの活躍しかできないよっていう例え話で」
「導入の後の本題は?」
「だから、例え話としてはコバンザメくんのストーリー導入部分っぷりが言いたかったっていうかね」
「兄貴の八面六臂の大活躍は? 悪者の親玉はどんな目に? さらわれた女の子の運命は? ちゃんとその部分を描写して下さい」
「えー」
 困る! そこまで詳細が求められるなんて!
「だってそこが重要な部分だって言ったじゃないですか」
 再びバンバンと机を叩き始めた。
「はーやーくーはーやーくー」
 どっかんどっかんである。どっかんどっかんになっているのだ。バンバンからどっかんどっかんに。いつの間にか握りこぶしで机を殴りつけている。
「タカ丸さん、ちょっと」
 焦った顔で滝夜叉丸が言った。
「なんでもいいから話を続けて下さい。このままだと机を弁償することになります」
 かなり早口だった。何しろ机の命は一刻の猶予もないのだ。ひびが入ったらもうほぼオシマイなのだ。
「ええと、ええと、その、学園を出ていった兄貴はもう怒りのあまり悪者の本拠地に真っ向突入した。突入は一人でなんだけど、もしかしたら兄貴は一匹狼と見せかけて腐れ縁的な存在がいて、そいつとは日頃は積極的じゃないけど縄張り争いみたいになっていて、でもお互いの力は認めてる感じで、えーとそもそもこの話の主題がそこなわけ。えっと、一匹狼的な兄貴はしかし一人ではない人と人との絆があると……」
 大変だ大変だ素早く考えて話を収束させないと一つの机の命が守れない。
「差し出がましい質問ですが、さっきのコバンザメくんっていうのは、何なんですか。兄貴という人物の一匹狼を表現するには、人物の配置としては邪魔ではないですか」
 滝夜叉丸くん変にするどい。でも今考えてるんだからそういう細かいあれは不問としておいて欲しい。
 どういうことかというと、話を考えた人はこのコバンザメくんは全然重要な人物じゃないから、物語のテーマとかそんな辺りに全く関わってこない立ち位置なんだよね。その割には使いやすいキャラクターなのでちょこちょこ登場するのだ。テーマと矛盾するキャラクターなのに。つまり設定の大きな穴なのだ。考えてるのっておれだけど。
 でも綾部くん、コバンザメくんのキャラクター気に入ってるみたいだから本当のこというとまずいんだよね。
「そこはねー」
「その辺りも人のつながりというテーマの上で重要になってくるんですね」
「えっ……あ、うん。そう」
「やはりそうですね」
「えっ……そうかな」
 二回も確認しないでよ!
 綾部くんの中でコバンザメくんは結構重要な立ち位置になってしまったらしい。困った、この先ほんとに出てこないんだけど。大怪我してるし。
「期待しています」
 されても困る。
「とにかく兄貴にはライバルがいるわけで、ライバルは兄貴の舎弟気取りのザコのコバンザメくんが女の子をかばってボコられたという情報をいち早く入手していた。一人で乗り込んでいくことも知ってたんだけど、そんなの返り討ちにあって終わりだと思ってバカなやつだ、と言ってたんだけど」
「何で知ったんでしょうか」
「うーん、同じ学園の人だからかなあ」
「しかし、同じ学園の人間が縄張り争いをしているというのは些か不自然ではないでしょうか。この狭い学園で、そのような居座古座が、あまり積極的でない形で起こりますか?」
 滝夜叉丸くんは本当に変なところで鋭いなあ。
「縄張り争いっていうか、なんかこう……なんかこうライバル的な何かがあるということだったんだよ。そこは今回のエピソードは関係ないよ。そのエピソードは今回の話の前にあったライバルくんが初登場したかなり最初の方の話ですでに終えてるんだよ。そういうものなんだ」
「前の話?」
「滝夜叉丸、わからないのか?」
 意外そうに目を丸くして綾部くんが言った。すごくわざとらしく。
「これは連載ものの」
 また新しい設定が追加されてしまう!
「で、ライバルくんは『おれには関係ないね』などと言いつつ、チキンくんに詳しい話を聞きに行っちゃったりしたんだよ」
「チキンくんは出てこないって話じゃ」
「関係ないと言いつつもどうも気になるライバルくんは、町に兄貴が出ていったのを追いかけて待ち伏せしてた。本人は別に待ち伏せとかしてるつもりはなかったけど結果的には待ち伏せだった。しかも偶然を装った」
「ライバルくんって誰ですか?」
「えっ」
 しまった遮れなかった。綾部くんが発言したら疑問形で終わる前に遮ろうと思ってたのに。
「えーと学園の人だから」
「ライバルということは同じ学年ですね。鉢屋先輩ですね」
「えっ」
 また決まってしまった……。おれはもっと爽やかで熱血な人物のイメージだった。鉢屋くんが悪いわけじゃないよ。でも爽やかじゃないよ。熱血でもないし。
「これは例え話ですよね? 忍術学園の人物をなぞらえて、いったいどのような主旨なのすか」
 また滝夜叉丸くんから実にもっともな意見が出た。しかしもはや意味なのだ無いのだ。だって当初はあれじゃん、綾部くんの人生の話を例え話だったのに。
 関係なくなってもお話が続いている理由はただひとつ。
「机を」
「机?」
「机を救うための物語」
 どかん、とでかい音が響いた。綾部くんが再び握りこぶしで机を殴りつけたのだった。続きを早くしろという催促だというのは、何も言わなくても判っていた。
「偶然を装ったライバルくんは、怒れる兄貴に完全に無視された。兄貴はちょっと本気で怒っていたのでさり気ない変装をして待ち伏せしていたライバルくんが全然視界に入っていなかった」
「想像に難くない」
 というか綾部くんがライバルくんは鉢屋くんだとか言ったから一瞬にしてそういうイメージになってしまったのだ。
 もしかしてこの話を主導しているのは綾部くんなのではないか? という空恐ろしい疑問がにわかに沸き起こってきた。今の一言も一つの誘導ではないか? おれはもしかしてこの物語を通して綾部くんに操られているのではないか? 超怖い。
 いったい何が現実なのか……。
 おれはおれを保つために素早くこの物語を完結させなくては!
「気づいてもらえなかったライバルくんは、兄貴の背中に向かって『後で助けてくれって言っても助けてやんねーぞ』とか叫んでみたが、兄貴は既に次の角を曲がっていて姿が無かった。ただの近所迷惑だった。そんな感じのゆるいライバル関係の相手がいるような感じの設定なんです。そして結局兄貴は単身で悪者の本拠地に突入することになる。お約束として町外れの廃屋に、悪者のまあ偉そうなやつと、さっきの壁が手下的な下っ端に囲まれて、特に何をするでもなくたむろしているわけ。女の子は手足を縛られて別な部屋に見張りがつけられて、閉じ込められている。おれはいつも思うんだけど、こういうタイプの悪者は、さらってきた女の子もいない場合って男ばっかりで何やってるんだろうね。悪者は悪いことするようなやつなんだから決して明るい連中ではないと思うんだよね。だいたい悪者とかが溜まり場にしてる廃屋とか廃墟とかって暗いよね。暗い感じで集まって、何をして過ごすんだろうね」
「やはり次の悪事の相談などをしているのではないでしょうか」
 と、滝夜叉丸くんが言った。
「計画性がない悪者は一体何をしているのだろう」
「夢の話などをしているのでは。夢といっても品行方正なものではなく、明日金銀財宝を掘り当てて突如幸せになれないだろうかとかそういった途方も無いことを」
「未来に希望もない悪者は何をしているのだろう」
「過去の恨み言などを語っているのでは」
「過去に悪いこともなかった悪者は」
「今の状況などを語っているのでは」
「今って言っても今は暗い廃屋の中で特に明るくもない仲間と男ばかりで話題もなくたむろしているんだよ。その前後は過去と未来だよ。何を語るのだろう」
「計画性もなく未来の希望もなく過去に恨みもなく現在も空虚、しかしながら悪人」
 ゾンビのような人生だ。
「おそらくそれは既に悪人ですらないのでは」
「悪者なのは前提の話なんだよー」
「それ以外の前提が悪人であるという前提を覆す可能性があるのです」
「そうかなあ? 相反する性質でもないし」
「続き」
 綾部くんは、もう机を叩くことはしなかった。
 ただそっと、おれと滝夜叉丸くんのそれぞれの頭に手をのせて、ぎゅっとした。頭蓋骨をぎゅっとした。
 みしっと鳴った。頭の中で。意外と痛くはなかった。
「まあ実際はタカ丸さんのような明るく空っぽな人には想像もつかないような行為をしているんですよ」
「おれそんなに明るいかな?」
「その後の言葉に怒りましょうよ」
「何を言っているんだ滝夜叉丸。タカ丸さんは空っぽだから好奇心が旺盛なんだよ。全然悪いことじゃない。それとも何か、滝夜叉丸はタカ丸さんを侮蔑するのか?」
「いいやそういう訳ではなく……」
「じゃあ続き」
「はい」
 おれは気をとり直すために一度口を閉じた。実を言うと語っているうちにクライマックスの構想が浮かんできたのだ。脱線ばかりしてきたが、おれはこのお話にきちんと決着をつけたい。つけなくてはならない。綾部くんの人生のためでもなく、おれを保つためでもなく、これはこの物語への気持ちなのだ。その気持ちが次第に強くなってきているのが自分でもちゃんと判っている。だから綾部くんや滝夜叉丸くんに口を挟まれて次々と設定が追加されて行ってしまうのが、少しなんだかなあな感じなのだ。
「一人でやってきた兄貴はひとまず入り口にいた下っ端を二人を問答無用でぶっ飛ばした。いつもならあんまりそういう乱暴なやり方はしない。基本的には話せば分かる系の考え方の人なんだ。しかし今回ばかりは怒っていた。物音に驚いて『何事じゃああ!』とか叫びながら、悪者たちが建物の中からわらわらと湧いて出てくる。ちなみに悪者たちって、みんな兄貴と同じかちょっと上ぐらいの年ね。あんまり大人に喧嘩売っても勝てそうにないから。大人が子供相手に馬鹿正直に拳でぶつかり合うのもアホだし、それに勝ってもなんか不自然だし」
「急に現実の姑息な話を織り交ぜますね」
「さっき綾部くんとも話したけど、的度なリアル感とありえない感が物語のテンションを形成するキモだよ。で、湧いて出てくる悪者たちを物ともせずズカズカとその根城に踏み込んでいく。広くはない廃墟の、奥の一番広い部屋にお約束的に一番偉いやつと一番強いやつが踏ん反り返って座っている。あまりにもわかりやすい構造なので兄貴は全く迷わずにそこに一直線でたどり着いた。ぶっ飛ばしたのは最初の二人だけだったから、必然、兄貴は数多の悪者たちに周囲を取り囲まれている。正に四面楚歌」
「まさか楚の歌を諳んずる程教養のある悪者との戦いとは。予想外の展開です」
「これから始まる頭脳戦……じゃないよ! 綾部くん、楚の歌ってなに?」
「中国の楚の国の歌のことです。千年ぐらい前の国です」
「へー全然想像つかない。それが今なんの関係が?」
「タカ丸さん、その辺りは去年の歴史の授業でやりましたよ」
「去年はこの学校にいないよお」
「あ、そうか」
「滝夜叉丸くんは結構うっかりだね」
「そればっかりはタカ丸さんに言われたくありません」
「四面楚歌というのは、周り全部敵という意味です」
「うんうん、それは知ってるよー。でも綾部くん、補足ありがとう。で、周り全部敵のところに突入した兄貴は」
 綾部くんが曖昧な顔で、右手を曖昧な感じで持ち上げた。なんにもない曖昧な空間でものを言いたげに手を握ったり開いたりしたが、これ以上の脱線はだめだから無視した。
「言いたいことは判るぞ、喜八郎」
 滝夜叉丸くんがなにか言ったけど、当然無視した。
「取り囲む悪者の中には、手に鉄の棒とか物騒な武器を持ったやつもいる。なにより一番偉そうな悪者は腹立つぐらい悪そうな顔だし、あの壁はもう見た目から他の悪者たちと違ってやばいぐらい強そうなわけだよ。『なんだテメェはァ!? 勝手に入ってきて何のつもりだァ』青筋浮かべた壁が、鼓膜が破れそうなぐらいでかい声で言ったけど、兄貴は全く怯むことなくこう言った。『昼間、ウチのコバンザメのやつが世話になったそーだな』」
「おおっ」
「コバンザメっていうのは少年の正式名称だったんですか」
「しかし悪者たちは大爆笑した。なぜかというと昼間にボコったコバンザメくんがあまりにも弱かったので、その仕返しに来たらしい兄貴も多分超弱いだろうと瞬時に思ったわけだよ。弱いやつの仲間だから弱いに決まってるって、短絡的思考だよね。その弱いやつが一人で乗り込んできたんだから笑うしかないだろう。指差してゲラゲラ笑い転げる悪者に対して、さすがの温厚な兄貴もムカっと来たので一番近くにいた下っ端をぶん殴ってやった。笑いものにしてた相手が急に暴れだしたもんだからさ、悪者たちは一瞬ぽかーんとしてそいつが派手に吹っ飛んでいくのを見つめるしかなかった。で、飛んでいった先が一番偉そうな悪者の方だった。間抜けなことに、避けられなかったんだよーそいつ。踏ん反り返って座ったまま、自分のところの下っ端がぶっ飛ばされたのに巻き込まれて、椅子ごと転倒。『テメェ、何しやがる』なんて言いながら立ち上がったそいつは、鼻血出してて正直本当に間抜けな顔になってた」
「笑っちまいますね」
「偉そうにしてたくせにね。悪者たちのザコにも我慢できなくてちょっと笑っちゃったやつも居たよ。てゆうか壁が、思わず吹き出してしまった。笑われた方としてはムカーっとくるよね。『ふざけんな、やっちまえ!』と偉そうなやつは鼻血を出しながらも怒りに燃えて偉そうに叫んだ。そいつはアホだけど、まあ、悪者はみんな血の気の多いやつらなんで、やっちまえと言われたらやっちまう派なんだよね」
「その主体性のなさが悪の道には必要なのかも。命令がなければ鬨の声一つ上がらない、有象無象のゴミクズども……とは言えども数を揃えばそこそこの力を振るうことはできるでしょう。乱戦の渦中となった廃屋の中」
「ちょっちょっ、ちょっとーなんで綾部くんが続き喋ってるの? これはおれが考えてる話なの! 邪魔しないでよ」
「おっと失礼」
「しかもおれが話してたのとノリが違うよね。なんかこう、シリアスな感じの、なんかひどい」
「日頃考えていることが口から出てしまったのでしょうか」
「お前は常日頃から人様のことをゴミクズだとか考えているのか」
「それは滝夜叉丸にだけは絶対に秘密にしたいと思っている」
「なっ……意味がわからん」
「もう邪魔しないでね。もうすぐ終わるからね」
「はいはい」
「まあ、綾部くんの言うとおりだよ。多勢に無勢の乱戦が始まった。当然兄貴は強いわけだけど、相手は人数がいる。最初の五、六人は良い感じにぶっ飛ばしたけど、後から後から来るもんだから、疲れとかなんとかで。しかも相手は卑怯な悪者だ。悪者だから卑怯な手とか使ってきて、えーっと……髪型が……髪を切って……」
「定番は目潰しとかでしょう」
 目潰し!? 数で優っているのにさらにその上そんな卑怯な手が!?
「ナイス。滝夜叉丸くんすごい。よくそんな卑怯な手を思いつくね」
「いや、定番の手法で……別に私が卑怯なわけでは」
「授業でも使うじゃないですか、目潰し」
「喧嘩と授業は違う。忍者と悪者は違うの」
「ん、まあ、そういう部分もありますが」
 滝夜叉丸くんは納得いかないようだったけど、おれにとっては納得できないのが納得できないのだった。
「忍者と悪者は違いますが、悪者は無法地帯です。卑怯でも勝てばいいーってやつらなんです」
「確かにそうだ。綾部くんの言うとおりかもしれない。悪者は目潰しを使った。悪者の一人が、兄貴の目玉を狙って先の尖った錆びた鉄釘を」
「違いますよ! 砂とか泥水とかで一瞬視界を奪うんです!」
「えっそっち系!? 滝夜叉丸くんが言ってるのってそっち系!?」
「当たり前です! タカ丸さんの発想が恐ろしすぎます。全く少年向けじゃない。子供同士の喧嘩で命に関わるような凶悪な手段を使わないで下さい」
「子供っていうかー」
「兄貴ってのが誰か知りませんが、話の流れからして五年か六年の誰か、ぐらいの話なんでしょう? それが喧嘩で失明の危機とか、深刻すぎます」
「そうかも」
「そうです」
「砂か泥水ね。それで目潰し。うん、そうかも。それはアリです」
「その展開でお願いします」
「はーい」
「鉄釘もいいじゃないか。流血沙汰」
「煽るな!」
「砂かな? 廃屋の床はそのまま地面の、そういうタイプの作りだったってことかな。兄貴に殴られて倒れこんだ悪者の一人が、怒りに任せて地面をがりりと掴んで、なりふり構わず兄貴に投げつけた。上手いこと砂粒が兄貴の顔にふりかかり、兄貴はたまらず両目をつむった。その隙を狙って背後からあの壁が、鉄パイプを振りかぶって、あ、間違い。でかい角材とかを振りかぶって、避けられない強烈な一撃を加えんとして」
「あ、わかりました。このピンチにさっきのライバルくんですね」
「ネタ潰しだよ! 綾部くんそれはネタ潰し!」
 綾部くんの間に入る速度が素早すぎる。
「ライバルくんはあんなことを言っておきながら、兄貴の動向が気になって後をつけていたんですね。しかし話しかけても無視するような奴、素直に助太刀に入るのもなんだか癪に触るので、まあタイミングとしてはボコボコにされた後ぐらいで出てきてやろうかと思っていた。その方が恩が売れるかな、と。でも兄貴のあからさまなピンチを前にして、思わず飛び出してしまったと」
「……うん」
「『邪魔すんなよ』『見てらんねぇんだよ』『見てんじゃねーよ』『見てねーよ』『見てなかったって言うなら何してたんだよ』『通りすがりだよ偶然だ』といったやり取りを交わし、二人揃うと半端無く無敵になって悪者を完膚なきまでに叩きのめした……とまあ、こういったお話ですね?」
「……うん」
 あっという間にすべて最後を取られてしまった。おれの物語に対する責任が。
「呆気無い終わりになっちゃったけど、まあ要するにそういう粗筋のお話だったんだよ」
 おれが広げたはずの風呂敷が、目の前でむざむざと綾部くんに畳まれてしまうなんて。こんなことがあっていいのか。
 おれだ頑張って考えた物語だったのに。
「はあ。して、どういった主旨でこのような語りを行なっていたのですか?」
「あーそれはねーしつこいなあ。話すと長くなるんだけどー」
「タカ丸さん、エピローグがあるでしょう」
「え……」
 エピローグ? この話のエピローグ?
 大勢の悪者を相手に大立ち回り、ピンチもライバルとの協力で切り抜け、見事巨悪をぶちのめした主人公たち。そして平和な日常が戻り……エピローグ。
「あるかも」
「あるでしょう」
 そうだ、ある。まだ全ては畳まれていなかった。
「翌日。一晩たって、コバンザメくんは起き上がれるまでに回復していた。昨日の夜、自分が悪者にやられたって話を聞いて、兄貴が学園を抜けだしてどこかに行ったと、そういう話をチキンくんから聞いたコバンザメくんは、慌てて兄貴の長屋の方に向かう。兄貴は? 悪者は? あの女の子は? 長屋の廊下の角を曲がった所で、果たして兄貴とライバルくんに遭遇した。二人ともあちこち怪我をしている。さすがの最強もあの人数や壁と戦って無傷じゃ帰ってこれなかったんだ。包帯ぐるぐる巻きの責任を感じて、コバンザメくんは勢い良く土下座寸前な感じで頭を下げた」
「コバンザメくんはさすが筋が通っていますね」
 それはそういうところかなぁ。
「でも兄貴は若干素直でないので……というか頭下げられても、お前のせいで喧嘩して大怪我したぞ! とか普通は言えないので……ライバルくんは完全に言いそうな勢いだったけど、その前に兄貴はいつもの調子でこう言った。『お前、また長屋の前に落とし穴を掘っただろう? 昨日の夜中に二人して落ちて、上がってくるの大変だったんだ』なんてね」
「おおお」
「その少年が架空のコバンザメくんなのか喜八郎なのかはっきりして欲しい」
「ま、そんなわけで爽やかにことは終わったというわけ。ライバルくんはなにか言いたそうだったけどね」
「おおおお」
 綾部くんは固く握った利き手の拳でどっかんどっかんと机を殴りつけたのだった。感嘆の表現だった。しかしそれは机にとってあまりにも危険すぎた。判っていたが、止められなかった。
 あんまり嬉しそうだったので、おれは誇らしい気持ちになり、止める気にならなかった。だってさあ、おれの話が人を感動させられたわけじゃない。すごいよね。
「感動しました。いい話でした。ぼくは報われました。夕食を食べに行きましょう」
 最大限の賛辞だ。物語を語ってきて、これ以上の褒め言葉はない。
 しかしその最後の力強い一発で、ドカンとミシリと机はひしゃげたのだった。折れた断面から、細かい木屑が微かに舞った。
 惨事だ。机は死んだ。弁償だ。
 やっぱり止めるべきだった。
「長かったな。では行くか」
 滝夜叉丸くんは立ち上がり、すっと教室を出ていく。机は見て見ぬふりだった。
 綾部くんも全く気にしていないようで、さっさと行ってしまう。
 でもこれ、綾部くんが勝手に壊したんだから、綾部くんが弁償するんだよね?
「タカ丸さん行きましょう」
「うん」
 だからおれは気にしなくてもいいんじゃない? と結論した。
「ところで女の子は大丈夫でしたか?」
「もちろん。それもまた後日、兄貴とコバンザメくんが町を歩いていた時に再会するんだよ。女の子はうれしそうにコバンザメくんは素通りし、兄貴に駆け寄って、『あの時はありがとうございました』って、ちょっと頬を赤らめて淡い恋の予感みたいな」
「最初に助けに入ったのはぼくじゃないんですか。ぼくにお礼は?」
「正直コバンザメくんはボコボコにされただけだから。だいたいその子が攫われた決定打はコバンザメくんを庇ったからだし」
「あ、そうか。そんなやつがのこのこ出歩いてて、つば吐きかけられたりしないですかね?」
「さっちゃんはそんな子じゃない!」
 なんでそんな恐ろしい発想が出てくるの!?
「さっちゃん? 実は幼なじみの?」
「あーいやーそれは別なさっちゃん。このさっちゃんは本名がお幸ちゃんで、幼なじみのさっちゃんはお里ちゃん。お幸ちゃんは黒髪ストレートロングのちょっと儚げな感じの子で、コバンザメくんの1つ年上ぐらいね。お里ちゃんは茶髪で柔らかい髪質で肩ぐらいまでの長さで元気で気が強いけど、年下」
「お幸さんとのフラグは無理ですか?」
「無理だね、だって顔覚えられてないもん。お里ちゃんは幼なじみだよ、お約束だよ」
「黒髪が好みです」
「あーなるほどー。でもお里ちゃんは染めてるわけじゃないんだよ。もともと生まれつき明るい色なの」
「でもお里は自分で道場破りに食ってかかるような性格ですから。一緒にいると喧嘩になりそうです」
「喧嘩するほど仲がいい、って感じで幼なじみとは進展してくのがお約束だから」
「何二人して妄想の女性の話で盛り上がってるんですか。急がないと本当に食いっぱぐれますよ」
 終始滝夜叉丸に呆れられる夕方なのだった。

 それでこの話はおしまいだったつもりだったんだけど、翌日、授業は一日お休みの朝、おれは綾部くんにたたき起こされた。
「町に出かけますよ」
「え?」
「お幸さんを探しに行きます」
「え?」
 困惑している間に、おれは綾部くんに引きずられて長屋を出た。
 引きずられてっていうのは、比喩的表現ね。実際に無抵抗で引きずられるほど無力ではないし。しかしテンションに飲まれて、寝ぼけている間に着替えてなんか付いていってしまったのだった。
 引きずられているのはおれだけではなく、滝夜叉丸もだった。
「久々知先輩!」
 引きずられた先は、ひとまず五年長屋だった。
 引きずられながら考えたのだが、多分綾部くんは昨日の物語を再現しようとしているんじゃないのかな。すごく感動してたし。多分そういう遊びなんだ。
 五年長屋の前の井戸のところで、久々知くんが顔を洗っていた。
「お、どうした?」
 何も知らない久々知くんはごく普通に返事をした。おれが昨日話した適当な物語なんて知る由もない。これからどんな突飛なことを言われるかも知らずにいるわけだ。当たり前だけど。
「これから町に出かけます」
「ん? そうか、行ってらっしゃい」
「悪者に狼藉を働かれている少女を助けに」
「は?」
 久々知くんは当然の流れとして、わずかに面食らった顔をした。
「お幸さんを探しに行きます」
 しかし綾部くんがコバンザメくん役だとすると、おれは目撃証言のチキンくんとして物陰からその負けっぷりを見ていないといけないのか。
 じゃあ滝夜叉丸くんは何なのかな?
 滝夜叉丸くんは何もツッコミも入れずに、むすっとした顔で腕を組んで黙っていた。
「そのお幸さんというのが、どうしたんだ?」
「町を牛耳る悪者に攫われるんです。僕はそれを助けたい。たとえ敵わなくても」
「知り合いなのか」
「僕の幼なじみ……ではないのですが、重要な人物です」
「大丈夫なのか? 敵はどんな奴だ? おれも行こうか。あ、いや他に手伝えそうな奴も連れていこうか」
「いいえ大丈夫です」
 綾部くんは胸を張って言ったが、おれは少し頭が痛くなってきた。
「後ほどことの一部始終をこのチキンくん……おっと違ったタカ丸さんが報告しますで、それを聞いたら、怒って悪者をやっつけて下さい」
 綾部くんの説明は、なんとも言えない不安定さがあった。
 話作ったおれでさえ、不安定な感じになるこの感じの、変な感じ。なんにも知らない久々知くんは全くわけがわからないと思う。わけがわからないことを言っているな、と理解できるぐらいにはわけがわからないと思う。
 だから久々知くんは、さっきまで真面目に相談に乗っているっぽかったのに、今は遠くを見るような顔になっている。
「うん、そうか。頑張れよ」
 適当に流した。
「行ってきます。鉢屋先輩にもよろしく言っておいて下さい」
 しかし綾部くんにとっては相手がわかっているとかわかっていないとか、そんなのはどうでもいいのだ。面白ければそれでいい、と考えるタイプだから。
 斯くして綾部くんは踵を返し、意気揚々と校門の方へ向かっていった。
「なんだ、あいつ。一体どうしたんですか」
 一応声が届かないかもしれないぐらいの距離になってから、久々知くんはおれに向かってそう聞いてきた。
「それはーカクカクシカジカで、そういう人生のことで」
「変な遊びを始めたんですね。何でそんな話になったんですか」
「いやー、綾部くんね、昨日さ、久々知くんの人生に憧れているという話をし始めたんだよ」
「人生?」
「久々知くんがね、過去に色々あって苦労してるっていう……あ、ごめん、あんまりこういう雑談とかで出すような話じゃないよね」
「苦労って、おれの実家の豆腐屋の経営が最近の原料高騰で厳しいっていう話ですか?」
「え? 豆腐屋?」
「一昨年、去年ともかなり気温が低かったから、農作物は大豆に限らずどこも不作だったんですよ。それでも大豆は痩せた土地でも育ちやすいので、他の作物よりはましでしたけどね」
「え? 大豆の話なの?」
「違うんですか?」
「あの……おれが聞いたのは、久々知くんの親は暗殺されて、落ち延びた生き残りの一族が……」
「ああ、それを束ねて行かなきゃいけないってことになってるっていう」
「それ」
「誰から聞いたんですか?」
 久々知くんはふっと吹き出した。どういうこと?
「みんな言ってるよぉ」
「タカ丸さん、素直ですね。それは今年の頭からやってた課題なんです」
「課題?」
「騙しっていう課題があって、それを五年になったら全員やらないといけないんです。一つ嘘を考えて、五年生以外に信じさせて、半年たったらみんなにねたばらし」
「え? え? 課題で? 嘘つくの?」
「そう。半年の間にばれなければ、嘘はなんでもいいんです。おれは自分の家の話をあんまり他の奴にしたことなかったんで、ばれないかなと思って」
「え? でも毎年? じゃあ騙されるって、みんな判ってるんじゃないの?」
「それでも騙さないといけないんです。難しい課題ですよ。タカ丸さん、来年ですね」
「え? じゃあホントにさっきの親の話とか嘘? でも綾部くん、信じてたよ?」
「それは、からかわれてたんですよ。だってタカ丸さんが来る前にその課題は終わっていますから」
「え、えええー」
 だまされた! あんな迫真の演技でごく自然に話題に出されたから完全にだまされた!
「で、タカ丸さんは町に行かなくていいんですか?」
「ええええ……腑に落ちない。腑に落ちないよ」
 おれをまんまとだましたまま、綾部くんはあんなノリノリで話にツッコミを入れたりして、なんて策士なんだ。なんの意味があるんだ。
 言って、一言なんか言ってやらないと気が済まない!
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
 あーなんか久々知くんから笑われてる気がする。いや、笑われてる。あーなんか腑に落ちない。
 でも久々知くんになんか言うのも違う気がするから、やっぱりおれは綾部くんを追って町に出かけるしかないのだった。

「いや、久々知先輩のご実家、豆腐屋じゃないでしょう」
「ははは。四年は皆、真面目だな」
「まあ、先輩がそれでいいのならいいんですけどね」
「お前は行かないのか、滝夜叉丸」
「私は一応、あのアホ二人が何をするのか気になっていただけですので。あと、兄貴の正体が」
「兄貴?」

 で、結末から言うと、お幸ちゃんはいなかった。
「薄幸そうな黒髪ストレートロングの美少女なんてどこにもいませんでしたよ」
「でも悪者とそいつらに絡まれてる美女はいたよね」
「まあ百歩譲って黒髪だったのであれがお幸さんでもいいですが、お話よりずいぶん強い女性でしたよ。自分が優勢になるやいなや『馬鹿にするんじゃないよ』って悪漢の一人を平手で張り倒してましたからね」
「かっこ良かったよね」
「悪者の方も悪者の方で、不良じゃなくて借金取りだし」
「狼藉働いてたんだから似たようなもんじゃない」
「その上、全然強くなかったじゃないですか」
「それはもうちょっと綾部くんが負ける努力をしたらよかったんじゃない」
「だって奴らちょっと落とし穴に落としたり罠に引っ掛けたりしただけなのに骨を折ったりしちゃってるんですよ。期待はずれもいいところだ」
「コバンザメくんは落とし穴なんか掘らない」
「とにかく今回は失敗です。失敗」
「でもさー、あの女性から、学園に感謝状届いたって、学園長言ってたよ。噂になってるよ」
「え、ほんとですか?」
「ホントホント。久々知くんも綾部くんのこと、かっこいいなって言ってたよ」
「うーん、試合に勝って勝負に負けたような」
「いいことしたんだよ。素直に喜ぼうよ」
「納得できない。タカ丸さん、来週も行きましょう」
「え、またお幸ちゃんを探しに? そう何人も悪者に絡まれてたりするかなぁ」
「いえ、同じパターンだとつまらない。別な展開を希望します。そういえば、なぜお幸さんは襲われていたんですか?」
「えーっと、かわいかった……だけじゃないよなあ。なんか親が有力者でどうのこうのとか」
「その辺りを掘り下げたエピソードが必要ですね」
 それは、またおれが話を作るっていうことなのかな。
 正直、綾部くんが何をしたいのか全然意味分かんない。面白いけど。
「面白いよね、綾部くん」
「え、僕がですか」
「面白いよ。面白い人生歩んでるよ」
「そうですか」
 実にまんざらでもなさそうだった。

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