少し未来の過去の話
かなり走った。かなり逃げた。もう、いい頃合いだ、そう思って足を止めた。
草木生い茂る山道を駆け上がっていたその速さを、急に零。同時にぼくの焦りも溶けるように掻き消えた。煩い鼓動と早い呼吸が生き残っている。
振り向こうか?
誰の気配もない。誰も追ってきていない。誰にも追い付けなかったんだ、ぼくの逃げ足には。短い笑いが、呼吸の間から一つ溢れた。
後から後から、喘ぐような奇妙な笑いが、押し寄せてくる。だけど未だ呼吸の整わないぼくの唇からは、笑い声さえ短く一つ二つが出ていくのがやっとで、殆どが喉の奥でつっかえたまま、正常な呼吸を阻害するばかりなのだった。
それは幸いなことだった。もしもぼくのこの苦しい涙を伴う笑い声が次々と口から出ていくようであれば、ぼくは笑いとよばれるものにすべての体力を奪われ、ぶっ倒れて死んでいただろう。そうに違いない。
真昼の太陽が木々の隙間からぼくに睨みを利かせている。ぼくに向かって、生きなければならない、と言っている。諦めればぼくは照りつける熱に四肢をゆっくりと焼かれ、熱と乾きの中で殺されるだろう。そうに違いない。
ぼくはまだ耳が聞こえる。目が見える。鼻も利く。両足が動く。両手も動く。声も出る。ものを考える。だからまだ生きているって、知っている。
両足を揃えてぴったりと制止したぼくは、東西南北上下左右とどこにでも動き出せる。必死になって一人逃げ出して、既の事に敵の刃を躱し、命からがらここまで半日走り続け、さあどこに行こう。
本当はぼくは、自分は途中で力尽きて斃れるんじゃないかと思ってた。逃げ惑いながら……いや、その前から。逃げよう、逃げなければ、ととっさに思った瞬間、それと同時に、しかし無駄だろうと考えていたのだ。
敵陣の中に仲間と共に身分を偽って潜り込み、そしてぼくらの企みが明るいところに追いたてられた時。無数の切っ先と怒りが一斉にぼくらを取り囲んだ時。
そしてぼくらは各々に、逃げ出した。
まさかぼくが生き残るとは微塵も考えていなかった。まさかぼくが。だって他に能力のあるやつ、たくさん居たじゃないか。
こんな時に限って運がいい。そしてぼく以外は、運が悪かった。いつもと逆じゃないか。
立ち止まった足が棒の様に固くなる。荒いままの呼吸の奥で、ぼくの自嘲の笑い声は、嗚咽と区別がつかなくなり、しかし体はまだ如何にも生きている! 動ける!
追っ手は? 在ろうが無かろうが、ぼくはまだ逃げなくてはいけない。生きている。だから嘗て教わった通りに。
帰るべき場所を頭に思い浮かべ、そして昔々にぼくの意識に生きろと深く刻みつけたあの場所を思い起こすのだった。
生きている限りに、逃げ続けなければならない。死ぬのは悪いことだ。
まだ走れる。息は苦しいが――。