ロマンス・グレー

 池を覗き込んでため息を付いたのは、大川平次渦正その人だ。
 月明かりの照り返す水面は磨かれた鏡のように色を正確に跳ね返す。そこに白髪交じりの自分の頭を見つけ、若かりし時も終わりか、と思うたのである。
 もう思い出せないほどの昔の事だ。今になっては白髪しか残らぬ毛髪も、数残っているだけありがたやという時分である。いつからそう自分の感性が切り替わったのか、ふと考えてみると、つまりここに来てからだ。
「ここというと」
 山田伝蔵が合いの手を入れた。向かい合い茶をすする彼の頭巾を取った頭には、白い物が数多く混じっている。とはいえ同年代の内では少ないほうだろう。
「ここじゃ。つまり学園を作ろうと思い立って、方々に土地を求めようやく理想の所に巡り会ってからじゃな」
「ははあ、そこから忙しくなって忘れたという事ですか」
「まあ、そうじゃろう。それから話はトントン拍子で進んだからのぉ」
 思い返してみると、本当にそこからは早かった。土地という形有るものを手にしてから、夢が俄然鮮明に見えてきたのであろう。環境を整えるべく校舎を設計するにしても、教師となるべき人を探すにしても、がむしゃらとしか言い様のない行動だった。
「山田先生は気になりはせんのかね」
「私ですか。そうですねぇ、いつも、忙しいもんですからね、いつ増え始めたのかさっぱり覚えていないんですよこれが」
「じゃろうなあ」
「でも学園長の話を聞いていたら、そういえばそうだと思いましてね。若い頃はそうでもなかったんですが」
「というと」
「学園長先生と同じですよ」
 にやっと笑って白髪混じりの頭をぽんと叩いた。
「そういえば、利吉のやつが一ヶ月ほど前に家に帰ってきたんですよ」突然話題を変えた。
「人手の欲しい正月なんかは絶対帰ってこないって言うのにね、この変な時期に。偶に顔が見たいと言っても聞かないやつが」
「親の心子知らずというやつじゃのう」
「全くですよ。偶然私も外の仕事の帰り、家に寄っていまして、久しぶりの顔合わせになったんですが。会って早々嫌そうな顔をして「げっ」何て言う。それが久しぶりにあった親に言う事か、と思わず叱ってしまいました。しゅんとしてましたがね」
「はっはっは。あの利吉君が父親に怒られて、小さくなっている姿なんて想像付かんのぉ」
「人前では見栄を張りますからね。気ばかりでかい」
 伝蔵の話は親ばかのひが目、というやつである。当人が情の篤いのと薄いの、両方の仕事をこなしているだけに実の子に対する愛情も、外からは見えにくいが並以上に強いのだろう。
「理由を問いただしましたところ、白髪が、というのですよ」
「おお、話がつながったの」
「何気なく家の池を覗き込んだら、白髪が一本有るのを発見したんだそうです。私や妻に見つかる前に抜こうと奮闘したらしいんですが、一度見失うと消えてしまったとか」
「若いからじゃな。若うないと、一本ぐらい気にならんもんじゃ。それに」
「そう、それにという話です。私が白髪が気にならなくなったのは、教師に本腰を入れるようになってからですね。少し変わりました」
「うむ。まだ利吉君も青いという事じゃあな」
「その通りです」
 と、伝蔵は白髪の増えた頭を揺らして笑った。

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