風邪

 大概、あまり気分のいいものではない。一度、相手が純朴そうな農民あがりだったときは、帰路の途中で酷い目眩がした。腹に渦巻く思考が幾度も全身を駆け巡っては、目や耳や鼻や肌に幻覚を負わせ、また新たに絶望を引き連れて戻ってくる。血液があまりに早く循環するため、体温が幾らでも上昇していく。同時に幻覚は薄ら寒く、自分の足先指先が氷のように冷たく堅く変質していくのを感じる。重い感冒のような症状だった。
 勿論、その感覚どちらも幻覚に違いない。その時の私は完全に無傷だったし、栄養状態も悪くなかった。
 しかし一度殺しを経験してからというもの、一過性の病と同じに、些細な原因でそういう症状が現れることがある。時が経つにつれ、以前より頻度は減ったが。
 恐らく私の生きていく上でそれらの殺しが必要なかったのではないか、という疑いが有るからだろう。
 それを指摘したのは、武器を手にしたままの久々知先輩だった。
 ある時、先輩が鼻の曲がるような異臭を漂わせていたことがあった。偶々そこを通りかかった私は、白昼の学園の門を静かにくぐりぬける彼の、僅かに開かれた唇の間から肺の律動正しい機能が繰り返される音を聞いた。
 普段と変わって厳しく眉を顰めた顔がこちらを見て笑みに変わった時は、その穏やかな現象が、絶望的に遙か遠くの場所で起こっているような、そんな気になった。
 門番の小松田さんが久々知先輩を見るなり鼻を摘んで、
「ひどいですね」
 と言った。真夏の、お天道様が、怒りを地に降らしている日のことだった。
「どこか途中で水浴びでもしてくればよかったのに」
「ちょっと急いでて」
 門の向こうに、所々黒い染みができていた。
「あーあ」足跡のついた道を眺めながら、小松田さんは不満そうだった。「後で砂かけとかないと怒られるなあ」
「すみません」
 そのやり取りを少し離れた所から、黙って見ていた。いつの傷なのか、破けた袴の脛の部分が黒く血で固まっている。半身を滴る腐水は、彼のものではないのだろう。あんなに血を流したら死んでしまう。
 蒸し殺されそうな暑さのために腐った血肉が、鼻から脳をつつく甘い匂いを漂わせていた。
 そして先輩はこちらに気がついて、穏やかに笑った。普段と変わりなく。
「久々知兵助!」
 校舎から顔を出した、黒装束の教員の怒号。それで走り出した先輩が擦れ違い態に、
「ごめん」
 と言ったのは、たぶんその酷い腐臭についてだったのだろう。
 しかし、私はその時はそのように感じられなかった。まさかあんな酷い風体の人間が、常のような言動をするとは思えなかったのだ。
 つまりどのように思ったのかというと、「私は生死を気に病むような人間ではないので、君と大分違う種別にある」ので申し訳ないが、と断絶するように言ったかに感じたのだ。
 殊に私は先輩を真人間の代表のように見ていたので、大きな衝撃を受けた。
 折しもその夜、私は酷い悪夢に魘された。
 薄暗い町中でぼうと歩いていると、擦れ違い態に私の方を凝視した男が居た。道の向こうから真っ直ぐに私を睨みつけ、足早に向かってくる男が居た。ようく見ると、それは去年と先月に、やむを得ず殺害した二人の若者だった。
 薄暗い景色がいっそう暗くなり、また同時に呼吸が困難になる。私が一歩後じさるとがくりと地震が起こり、町並みが斜めに崩れた。遠巻きに私を見ていた人々が、地震と供に崩れ落ちて、いつの間にか消えてしまった。
 さて私を追う二人の男は、両手を伸ばし、私の心臓を掴みにかかった。私の肉体は腐敗したらしく、殻に守られている筈の心臓は突き出された手にぐっと握られ、鈍痛が喉の奥深くに発生した。呼吸が止まる思いだった。
 走ってこちらに向かってくる亡霊に、私は一歩二歩と数えるように後じさることしかできない。私は腰に差した刀をいつの間にか手にしていたが、それを振り回すという考えを持てなかった。
 ただ向かってくる亡霊から、後ろ歩きにゆっくりと逃げる。一歩後に進む毎に町並みは揺れ、次第に風景は混沌とした灰色だけになってしまった。 一度潰された心臓は、真に重症であるわけではないらしく、亡霊が腕を伸ばすたびに何度も苦痛を感じた。
 何という悪夢を見るのだろう。音もなく、色もない風景を苦痛と共に眺めながら、そろそろ目を覚ますべきだと自身を急かした。でなければ、この呼吸しがたい状況で死んでしまうと感じていた。目で見る物は夢であると判っているのに、感覚は現実と疑いもしなかった。不思議なものだ。
 やがて私は、何度も潰される心臓の痛みに耐えきれなくなり、うっと短い呻きを上げた。
 その声だけが現実だった。まったく無音の悪夢の底の底から、自分自身の呻きが微かに聞こえた。
 目覚めると、月光眩しい深夜の長屋だった。全身をじっとりと蒸す暑さのためか、顔から足まで汗にまみれていた。悪夢の延長のように不快で、身体が重い。目覚めたというのに、苦痛が継続しているのだ。しかしそれは、呼吸を数回繰り返しているうちに薄れ始めた。
 風を入れるために開いていた戸から、煌々明るい月が見下ろしているのが見える。目を閉じると眩しすぎる程に感じた。
 夢に魘されるのは、随分と久しかった。何故今夜にそのような夢を見たのか。目覚めていく脳の中に、昼間に嗅いだ死臭と、穏やかな微笑みが蘇った。
 原因か。
 幾らか苦痛の残り香を鼻の裏に感じながら、私は部屋を出た。吹き出た汗を洗い流したかった。戸が開かれ、二つ敷かれた布団の片方を空にすると、私の傍らで眠っていた滝夜叉丸がうっすらと目を開けた。
 振り返り目を合わすと、彼は何も言わずにもう一度眠り込んだ。

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