水を浴びたいと思い、長屋側の井戸へ向かった。感冒でも患ったかのように、酷い熱を出しているような気分だった。
 月が白々と照らす深夜の長屋に、姿は見えないが人の気配が無数に潜んでいる。自室で寝息を立てている者もあれば、蝋燭を灯して書を読んでいる者もある。鍛錬のために長屋の壁を登ったり降りたりしている者まである。
 その吐息が蒸し暑い闇に融け出し、体にまとわりついていくように感じた。
 水を浴びなければならない。体にまとわりついているのは、生きている者の吐息だけではない。つい今し方まで見ていた夢、その中に現れた二人の死人の血が、時空を飛び越えて蘇り、私の全身に降りかかった。
 血を、落とさなければ。この夏の熱量の中では、血はすぐに腐って腐臭を放ち始めるだろう。
 まだ夢に魘されているような足取りで、長屋の脇を曲がった。
 開けた景色の上で、丸い月が空寒い光を放っていた。
 その真下の井戸に、人影がある。下帯一丁で髷も解き、頭から水を被っていた。
 波打つように聞こえてくる水音が涼しい。
 私は声を掛けるのを躊躇った。昼間に嗅いだ肉の腐った臭いが内鼻孔に蘇り、着いて離れない悪夢のように感ぜられた。魘されたのは、この臭いのせいに違いなかった。
 別な井戸へ向かうか考えていると、人影と視線がぶつかった。既にこちらに気がついていたのだ。手ぬぐいで濡れた髪を絞りながら、私を見ている。月の光が弱すぎて、その表情を伺う事ができない。瞬きする度に、虹彩が星のようにちらちらと光った。
「喜八郎」
 稍あって、相手は口を開いた。
「どうした、こんな夜更けに」
「久々知先輩こそどうなさったのですか」
「水浴びをしているだけだよ」
「私も水浴びをしにきたんです」
「そうか」
 全身に浴びた水を手ぬぐいで拭き取り、寝間着の白い下着を身に着けながら、やはり私を見ている。今更来た道を引き返して別な井戸へ向かうわけにもゆかず、私は久々知先輩の居る井戸へ近付いた。
「酷い顔だな。眠れないのか?」
「どんな顔ですか」
「自分で見てごらん」
 則されるまま、私は井戸を覗き込んだ。僅かに揺れる水の面に自分の顔が映り込んだ。
 暗い顔をしている。そのまま、黒い井戸の水へ沈んで消えてしまいそうだ。
「悪い夢を見たという顔だ」
「見ました」
「水でも浴びて、忘れたらいい」
「忘れられそうにもありません。臭いが染み着いて、取れなくなった」
 久々知先輩が驚いて、目を瞬かせた。
「まだ、臭うか?」
「さあ……」
 私は首を振った。記憶から蘇る臭いが強烈すぎて、鼻が利かないようになっていた。
「困ったな。これが中々落ちないんだ。三郎や八左ヱ門から、早く臭いを落としてこいと叱られたのに」
「先輩達でも、嫌がるのですね」
 私は妙な事を言ったろうか。
 久々知先輩は急に機嫌を悪くしたように、顔に浮かべていた笑みを消し少しの間何も言わなかった。
「そうだな。喜八郎、お前と同じように皆嫌がるよ」
「私が嫌がっていると、いつ言いましたか?」
「昼に会った時から、顔に出ていたよ。悪い夢を見させてしまったようで、悪かったな」
「先輩が悪いとは」
 私は視線を逸らして口篭もってしまった。確かにあの不気味な夢を見た原因は、昼に嗅いだ臭いに違いなかった。
 だからといって久々知先輩が悪いわけではない。気を悪くさせてしまったのかと、不安になった。
「殺される夢でも見たか」
「はい」
「おれもしょっちゅう見るよ。寝首を掻かれたり、後ろから刺されたりする。いつも不安なんだろうな。次の瞬間には殺されているかもしれないと思って」
「死体に殺される夢でした。でも私は、死体に殺される不安を抱いた事はありません」
 寧ろ誰かを死体にしてしまう不安を抱いている。
 私は不安を抱いて、久々知先輩の顔を見上げた。弱い灯りで滲んで見えるその顔は、良かった、腹を立てているようではない。
 しかし、虚しい瞳をしている。少しの間私を見つめ、「そうか」と短く気のない相鎚を打つ。
「喜八郎、水浴びしたいのなら空いているぞ。おれはもう部屋に戻る」
「待って下さい」
 私は立ち去ろうとした久々知先輩を呼び止めた。ここで夢の続きを吐き出さなければ、二度と眠りに就くことができないのではないかと思った。
「何だ」
 だが問い返されても、答える事ができなかった。鈍い沈黙が広がる。
 胃の底に暗い感情が蟠って、それが体液を媒介に全身にじっとりと広がっていく。体の外側には存在しない重たい熱量が、私を深い穴に鎖し、私以外の全ての存在から隔絶した。
 隔絶した外界の断面に、久々知先輩の双眼が柔い光を抱いて浮かんでいる。
 昼間に嗅いだ強烈な臭いは消え去った。目線の先に立っているのは、常と同じ久々知先輩に違いないはずなのだが。しかし頭の中には死体の臭いをまき散らしていた記憶が残っている。
 生きた人間と死体の臭いが結びつく事に、私は混乱していた。
「悔いているのか」
 急に久々知先輩が言葉を発した。
 何のことだか判らなかったが、判った。夢に現れた死体とは、私が過去に殺害した人物であると見抜いたのだ。
「判りません」
 だが判らない。この苦しい感情が後悔なのか何なのか。
「一ヶ月、一年と昔の事です。やむを得ずの判断でした。彼らを殺していなければ、恐らく今の私は無かったでしょう」
「うん」
「こういった事は、いつか風化して消えてしまうものだと思っていました」
「悔いて当然だ。殺しというのは、中々悪いことだからな」
「皆そうなのでしょうか? 先輩も、昼間のことを悔いてここに来たのですか?」
「おれは一昨日だった」
 生温い風が通り過ぎた。
「酷い顔だ」
 先輩は再び、先程と同じ事を言った。
「ただでさえ落ち込んでいるのに、後輩にそんな顔をされてはたまらないな。おれは妙な事を言ったか?」
 言った。
 他者の言葉一つで、死体の臭いが蘇ったり消え去ったりする。私の現実は奇妙に移ろいやすい。
「悔いているのですか」
「そうだ。当然だと言っただろう」
「だけどそうは見えない」
「平気そうに見えるか。なら逆に、全く平気でなかったらどうする? 死ぬか。それしか、ないな」
 私の額から汗がにじみ出た。温い風は吹き続け、汗と共に私の体温を奪って薄ら寒い。手足の末端が冷えて固まっていく心地がする。体温は上がっていく。
 夢の中で心の臓を掴まれた時と同じだ。不安に押しつぶされていく苦痛が体の中心で波打つ。頭が熱く、立ったまま目眩を起こしてしましおうだった。
「大丈夫か?」
「私は今、平気でありません。だとすると、私は死ぬのですか」
「死にたいのなら、止めないよ」
「死にたくありません」
「だったら生きるしかないだろう。今までお前が生き存えたのは」と、久々知先輩は語る。「少しは平気に思っていたからだ。だが平気でない部分もある。それはきっと、その殺しが生きるのに必要なかったのではないかと疑いをもっているからじゃないか。おれは喜八郎じゃないから、間違っていたらすまないが」
 一つも判らない。己が内にある不安の正体が何なのか、それが久々知先輩の言うとおりのものなのか、そうだとしたらその不安を振り払うにはどうしたらいいのか。
 私は目を覚まして立ち竦んだまま混乱している。これなら、暗い夢に魘されている方が、夢だと判っている分、楽だった。夢の中なら己の罪悪もまた夢だった。
「先輩は、どうして平気なのですか」
 不安の苦痛に揺さぶられる私と違って、久々知先輩は揺るぎないように見える。それが、たまらなく羨ましい。
「おれは生きていかなければいけないんだよ。おれの命は、おれ一人分の命じゃないからな」
「立場、ですか。そんなものがない私は、一体どうすれば……」
「おれにはお前の命も、お前一人のものではないように見えるよ」
「判らない」
 久々知先輩が首を振った。私は駄々を捏ねるように、もう一度判らないと口に出して言った。
「まあ、今は水浴びでもして忘れればいいさ。ここは平和だから考える時間もある。だが朝になったらちゃんと授業に出るんだぞ。いいな?」
 朝は、待てば来る。青白い月の光が、登ってきた日の強い灯火に追いやられ、辺りは輪郭を取り戻す。
 だがこの形のない不安は私の腹の中に態を潜めるだろう。夢を見るのと同じに、私が不安を抱けるのは夜の間だけだ。不安を振り払い、生きる標を見つけられるのも夜の間だけなのか。
 まだ朝は来ない。久々知先輩の去った後、井戸から立ち上る冷たい空気の横で、私は夜に取り残されたように立ち尽くしていた。
 この世に灯りが在るのなら、移ろう月の光ではない、太陽のような灯りが欲しい。

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