現代パラレル 007

※現代パラレル(設定)

≪写真科一年善法寺伊作≫
 ギリギリ、だ。何所をどう考えてもギリギリだ。
 金がない。
 昨日スリに遭った上にその後下ろした金を実習の必要経費であっさり奪われさらにその後文次郎が出演する演劇科の舞台のチケットを無理矢理買わされた。
 従って、今のところ持ち合わせが百円玉少し。
「金がないんだ」
「ほお、それで?」
「家賃を待って貰いたいんだけど」
「いいぞ」
「ホント! やった!」
「その代わり食事当番を代われ」
 願ってもない事だ。何でかというと、口には出せないが仙蔵の作る料理は不味い。不味いというと「じゃあ死ね」と変な罵倒をされる。
 僕の方は結構料理は好きだ。だから仙蔵の料理当番、全て僕が代わってもいいと思っている。しかし自分の方から申し出ると、妙な条件を付けられたりするので絶対に言わないが。
「いつ出せる?」
「明後日に奨学金が入るから」
 大学の方から貰っている奨学金なのだが、なんだかよく判らないんだけど入試の点数が良かったらしく、自動的に学費免除プラスで貰える事になっていた。学費免除の方は返却不要、プラス分は利子無しという超VIP待遇。
 いつもついていない僕にしては、あり得ないほどの幸運が入学時に突然舞い降りてきた。もしかしたらこの先何にも良い事無いんじゃないかっていうぐらい。
 だって下世話な話だけど、うちの大学の学費って、私立だし恐ろしく高い。それが免除だって。「芸術大学、それも写真科だなんて」と文句ばかり言っていた親も両手を挙げて喜ぶし。
 ただどうしても解せないのは、写真学科の入試は作文と面接のみだった事だ。
 小論文じゃない。作文。小学校以来書いていなかった、アレ。
 与えられた題は「いままで一番幸福だと思った瞬間について書きなさい」だった。写真とまるで関係ない。
 一番幸せだった事、と思い返して一つに絞りきれず細々と取り留めもなく書いてしまった。「これで受かったり落ちたりするのかあ」とか、あまりも結果に予測が付かなくてぼんやり考えていた。
 それでどうして僕の作文が学科一の高評価を得たのか、さっぱり判らない。
 得点も詳しい事は判らない。ただ僕のが一番だったらしい、という憶測だけ――奨学金を貰っているのが一人とは限らないから――が学科中に知れ渡っている。
 でも所詮作文の成績なので、羨ましがられても妬まれる事はない。
 そんな感じで何で受かったのかすらよく判らないのだが、でも今こうして何にも代え難い友人達とともに活動できているのだし、本当にこの大学に入れて良かったと思う。
 たとえ「奨学金があるからいいだろう」と親が仕送りを激減させたとしても。たとえただでさえ金の掛かる学科にいるのに、さらに劇団の活動で金を奪われているとしても。たとえ友人の出演する舞台のチケットを頻繁に無理矢理買わされているとしても。
「おい、寒いのか?」
 仙蔵に指摘されて気がついた。
 何でか振るえていた。武者震いだ、じゃなきゃ震えているのは僕じゃなくて地球の方だ。
「寒くない。寒くないよ。寒くないよ」
「三回も答える必要はない」
 寒くない、いや、気温は別に低くないのだ。寒いのは懐の方だ。
 悲しくなってきた。バイトをしよう。そうじゃないとどんどん懐は寒くなる。


≪附属高校三年進学科久々知兵助と同二年進学科綾部喜八郎≫
「進路って何の事ですか?」
「いや、何の事って」
「そろそろ考えた方がいいんですか?」
「そうじゃない、だって周りはみんな決めちゃってる頃だぞ」
「周囲の問題ではないと思うのですが」
 喜八郎が目を真ん丸くして言うので、兵助は困った事になったぞと小首をかしげた。
「じゃあ何にも考えてないって事か?」
「そういうわけでもないのですが」
 兵助の方が机の上に視線を落とした。何も書き込まれていない、進路希望のプリントが所在なく落ちている。窓から入る風に吹かれ、少しだけ飛び上がってはまた落ちた。
「木下先生が何か仰いましたか?」
「うん。……何で判った?」
「だってそうじゃないと、こんな放課後に残ってまで先輩と進路の話をしたりなんかしないです」
 兵助は顔を上げた。
「そうかな。でも純粋に心配してるんだけど。どうすんだ、来年からは実際の受験の準備になるんだからな。場合によっちゃクラス移動もあるし」
「僕は音楽とか美術とかに行く気は全くないです」
 クラス移動というと美術、音楽、デザインの専攻を希望するならば、三年からでもそのクラスへ編入するという話なのだが、喜八郎はその孰れにも特に興味はなかった。
「なら外に進学?」
「嫌です」
「ほら、じゃあ何所に行くの。決めないと困るのは自分だって判るだろ?」
「そうですね。放送のアナウンスにしようかなと、考えてはいるんですけど」
 アナウンス専攻というのは生徒内では別名アイドル科、タレント科。演劇や映画の演技専攻が演技主体の役者を目指しているとしたら、アナウンス専攻は所謂外見の魅力で売るタイプの俳優や、綺麗所のアナウンサーを目指していると区分けすることができる。
 それはちょっと人並みでない容姿をもった綾部には相応しいような気もしなくもなかった。
「じゃあそれで出すぞ?」
 兵助が早々に用紙に記入しようとしたので、
「待って下さい」
 さっと手を差し出して視界を遮り、きょとんとしている兵助をよそに、喜八郎は兵助から視線を逸らした。虚空を見つめて何か頭を巡らせている。
 すると突然何かを思い出したように、目を瞬かせた。
「そこだと就職が博打ですよね。久々知先輩は何所に行くんですか?」
「え、おれ? 喜八郎には関係ないところだよ」
 兵助は話を先に進めようと、喜八郎の質問を流そうとしたが、そういうのはこの後輩には通用しなかった。
「あります。久々知先輩は先輩ですから」
 喜八郎の言い方だと核心の所は結局よく判らないままなのだが、しかし悪い気はしない。
「そう言われると何か照れるな。でも知ってるだろ、おれは日舞専攻」
 日本舞踊。喜八郎は何回か舞台の手伝いをしているので(今こうして懇意にしているのも、その縁が有ってのことだ)、兵助がそういう出身の人間であるというのは知っていた。
 だけど改めて聞いてみると、その迷いのない返答には圧倒されるような決心が籠もっている。
 大きめの瞳の上に配置された形の良い眉が、その印象をさらに強めた。
「決まった考えがあるのが、羨ましいです」思わずそう漏らした。
「そうか、喜八郎はまだ判らないのか……まあ正直悩むところだよな。おれの意見は参考にならないだろうし」
「そんな事有りません」とは言ったものの、その実全く参考にはならない。
 何故かというと、兵助がそのように志望を固めているのは幼少の頃からのこつこつとした着実な努力の積み重ねとそれを許す環境が有ったためであって、それが全くなかった喜八郎にはどうしようもない話だったからだ。
 じゃあ何でこの高校に入ってきたのだったかと遙か昔(と言っても二年前だが)の記憶を遡ると、「楽しそうだった」からという一点に帰り着いた。
「僕も日舞に行きたくなりました」
 そう、ならば楽しそうな所に行けばいいと思ったが、
「でも喜八郎は踊れないだろ?」
「全くです」そう簡単に決まる事でもなかった。
 この先輩と同じ専攻だったら理想的だと思ったのに、現実にはやはり才能やら何やらが、各々の道を踏み外さないように――専攻選びに失敗すると、少なくとも次の編入のチャンスまで、一年を棒に振る事になるのだから――予防線として張られているのだ。
「もうちょっと悩みます。また相談に乗って下さい」
「うん。でも早めにな」
「判りました。じゃあ明日も」
「明日も!?」
「決まるまで毎日」
「相当だな……喜八郎、ちゃんと自分で色々考えるんだぞ」
「それはもちろんです」
 喜八郎は立ち上がって、兵助に頭を下げた。
「それではまた明日に」
「うん、あ、そうだ。明日七時から稽古だからそれまでしか話聞けないからな」
「はい」
 もう一度喜八郎は頭を下げて、教室を出て行った。
 そのままで残った白紙のプリントを鞄に詰め込み、兵助は自身の受験のための稽古に向かった。

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