現代パラレル 005
※現代パラレル(設定)
憂うつな日常からの離脱を計って、舞台をやっている人間も多い。それでも回数をこなすと、退屈に感じられるときも来る。
ファーストフードを取り合えず腹に入れながら、変なテンションで次回の企画を話し合う五人。
「ストレートもミュージカルもマンネリだから、生演をやろうかと思う」(*注 ストレート=いわゆる芝居。基本、歌も踊りも入らないものを言う)
言い出したのは文次郎だった。何でも自分の思いつきを押し通す男である。
「いいねそれ! でもアテはあるの?」
珍しい事、面白い事が何よりも好きな小平太。前後左右の思案も無く、ノリだけで賛成した。
しかし彼の言うように「アテ」である。生演、つまり生演奏。演奏者がいなければまず成り立たない。
「私の方にある」含み笑いと共に発言したのは仙蔵。「エレクトーンで、一人でオケに近い演奏をする知り合いがいる。いや、補足をすると、一人で弾けるように編曲もこなすのだ」
「すっげ!」
「何、所の人? 先輩?」
「……聞いて驚け」
驚く他メンバーの顔を見回し、仙蔵はククっと喉の奥で笑った。別に目の前の友人達を嘲け笑ったワケではない。
思い出したのだ。その「アテ」なる人物の事を。それは誰も予想だにできなかった人だった。
「あのへっぽこ事務員小松田秀作」
小松田秀作。名前が出た途端、大騒ぎしていたメンバー全員がしんと静まりかえった。店に居た他の客達が、騒がしい連中が急に静まりかえったのを、逆にいぶかしがって様子をうかがっている。
何しろ小松田秀作は、大学が誇る、一つ仕事を頼めば大騒ぎが起こり、二つ以上頼めば大混乱が起こる、凄まじき伝説になりうる事務員なのだ。そんな小松田は音楽科の事務を担当していた。音楽科で働くからには、そこの出身でそれなりの成績を収めている筈ではある。だがどうしても信じられない話であった。
ややあって、長次がぼそりと「嘘だ」と呟いた。
通常ならそのつぶやきは全く聞こえなかっただろう。だが静まりかえった店内で五人の耳に漸く届く程度の響きは、持っていたらしい。
五人の耳に長次の声が聞こえた。そのちょっとした事実に、またしばし沈黙が訪れる。異様だった。
「長次が呆れてものも言えなくなったよ! 嘘はよくない!」
小平太が突然大声で言った。沈黙に耐えられなかったのだ。
「落ち着け小平太、長次がものを言えないのは元からだろうが」
「文次郎、言って良い事と悪い事があるんだよ! それより仙蔵の話は本当?」
「本当だ。実際演奏を聴いたが、素晴らしいものだった。しかも、向こうからやりたいと言ってきた」
仙蔵はやはり余裕ぶった笑みを湛え、答えた。その時の状況を思い出しているらしい、面白くてたまらないと言わんばかりの笑い方である。
「やったー!!」四人がほぼ同時に叫んだ。勿論長次もだ。誰にも聞こえない声で。
そしてさらに仙蔵が話を続ける。彼は今日の会議(という名目となっている)の為に、ネタを二つ用意していたのだ。
「でな、さらにだ。山田利吉を知っているか?」
仙蔵の問いかけに、四人は顔を見合わす。
「知らんヤツなどおらんだろう」
「うちの最近の卒業生じゃ、一番の有名人じゃないか。彼がどうしたって? ねえ、良い知らせを期待していいのかな」
「無論だ」
山田利吉。音楽科のOBで、現在大学院に通いながらプロの作曲家として売り出している。入学時の「本大学出身著名人」の欄に掲載される程の有名人である。
さらに音楽科では珍しい、「顔も良い」しかも「腕もいい」希少人種である。音大生でその二つを両立している男は殆ど存在しない。「顔がいい」ならば「腕は悪」く、「腕がいい」ならば「顔が悪い」のが通説である。その点から言うと、ここにいる立花仙蔵も例外だった。
とにかくその希少的な存在の利吉は、学内で大変な有名人となっていたのである。
「その山田利吉先輩がな、作曲をしてくれようと言うのだよ」
だから仙蔵の持ってきたその話は、本当に驚くべき事だった。
「まじでー!」
「何か凄い事になってない?」
「長次も何か言えよ」
「………………」
「だよね! 俺もそう思うよ」
四人が口々に驚きを口にする。長次だけは、言ったのかどうかよく判らない。小平太には理解出来たらしい。
「まあちょっと話をしただけだから、確定したワケじゃないんだが。中々良い感触だったよ」
「仙ちゃん偉い!」
「ふふ、そう褒めるな」
「てめえを褒めてるんじゃないだろうが……」
「文次郎、余計な事言わないの」
そうして期待に溢れたまま、その日はお開きになった。
数日後、仙蔵は院生の利吉と先日交わした話の内容について確認を取っていた。
始めは気軽に承諾してくれた利吉だったが、小松田秀作の話が出た途端に顔を曇らせた。
「え、小松田君が伴奏するの?」
「ええ。彼、ああ見えて意外とピアノの前では凄いんですよ」
「いや、後輩だし、知ってる……知ってるけどねえ」
「何ですか」
歯切れが悪い。
「この話、無かった事に……」
言いかけたところに、砂埃を上げて走ってくる何か。
八つの学科を抱える巨大な大学の無駄とも思えるほど広い敷地内を、遙か遠くから爆走してきた。オリンピックアスリートも斯くやという程のスピードで近づいてきた人影は、あっというまに仙蔵の目の前に現れた。利吉を軽く突き飛ばして。
「利吉さん! 外部の方が勝手に入ってこないで下さいよう」
「院生なんだからいいだろう」
穏やかにすら聞こえる返答だが、利吉は突き飛ばされた結果植え込みに軽く突っ込み、さらに小松田が引き連れてきた砂埃にまみれていた。まれに見る酷い仕打ちである。しかも小松田に悪気は全くない。
色男も形無しといった状況で、埃と突き刺さった気の破片を払いながら、利吉はどのように報復をすべきかという考えで腹を巡らせていた。冷静さも全く失って、つまり腑が煮えくりかえっていた。
「良くないですよ。だってこっちは大学の敷地ですもん。さ、早く入門表にサイン、あと外部者バッジ」
「君いつもそれ持ち歩いてるの?」
後輩にみっともない格好は見せたくないらしい。見栄を張ってしまう性格なのか、腹の中はどのような大惨事になっているのか想像も付かなかったが、とにかく利吉は余裕ぶって小松田に言い返す。
ただし顔が、自分では気がついていないのだろう、青筋が浮かび上がらんばかりに引きつっている。
(何だこの二人は。面白すぎる)
仙蔵はこの様子を自分一人で楽しんでるのが申し訳ないと思うほど、笑っていた。
利吉も小松田も仙蔵の様子に気がつかない。小松田はいつでも目の前の事しか見えていないし、利吉は怒りで前しか見えていない。
先ほどの作曲を断られた事も、もうどうでもよくなってきた。この状況は面白すぎる。
(私にできる最良の努力は、この状況を壊さない或いはさらに面白く展開させ、後であの四人に詳しく話してやる事だ)
仙蔵の意志は固まった。
「ああ、そういえば君は今度伴奏を引き受けたそうだね」
「ほへ?」
「伴奏! 何でピアノ科出身が伴奏と聞いてその顔をするんだ!」
「だってなんで利吉さんが知ってるんですかぁ」
「さっき仙蔵君から聞いたんだよ」
「え〜? 仙蔵君が何で知ってるの?」
「ぶッ」笑いが溢れた。仙蔵らしくもない。一瞬返答に遅れを出してしまったが、仙蔵は何とか残りの笑いを飲み込んだ。
「僕たちの所の劇団を手伝ってくれるって仰ったじゃないですか」
「あ! そうだ、忘れてた」
「忘れてただぁ? 君はね、いつもそうやって無駄に人から仕事を無謀に引き受けているからいつもいつもいつも失敗しているんだよ!」
(今微妙に日本語がおかしかった)
「無駄ではないですよ。僕の方の練習にもなりますし、人の役に立てるし、みんなと一緒に何かをやるのは楽しいし」
「それは全部をまともにこなしてから言ってくれないかな」
「はあ、ちゃんとやってるつもりなんですけど」
「出来てないだろ!」
ああ、なんてこの二人は面白いのだろう。気がつくと、数人が立ち止まってこの大人げない大人のやり取りを聞いている。音楽科の校舎の前で話こんでいた事もあり、利吉の顔見知りも多かったのだ。それに小松田はこの大学の音楽科が誇るへっぽこ事務員として大変に有名だ。人目を引かないはずがない。だがそんな状況を二人は気がつかない。
「そんなに怒っては、小松田さんも面目が無いでしょう。何か恨みでもあるわけじゃないでしょうし」
傍目から見たら、仙蔵は大人げない先輩二人を宥める、冷静な後輩に見えるかも知れない。しかし実際は、いかにしてスマートに油を注ぐかを思案しているだけなのだ。
「恨みなんか沢山……」
「全然無いですよ」
「何で君が答えるんだ」
「仲良しですかがッ」
利吉に殴られて、最後変な声を出した。仙蔵にも衝撃音が聞こえる程、思いっきり殴られていた。だが先ほど利吉が小松田から受けた仕打ちに比べれば、大したこともないかもしれない。
「どこをどう解釈したら仲良しとだか言えるんだ! それに僕は忘れてないぞ、あの三年の時の演奏会で君のやった事!」
「仙蔵君、保健室ってどこだっけ」たんこぶをさすりながら、小松田は言った。全然利吉の話など聞いてない。
「一番近いのは映画棟の二階ですが。どうして事務員の小松田さんが知らないんですか」
「僕って結構健康でね、あんまりお世話になる事がないんだ」
あはははは、と小松田が笑う。つられたフリをして仙蔵も笑う。
白々しいこの二人。
「ちょっと、小松田君、仙蔵君」
「ほへ?」
「はい?」
「どうして私の話を聞かないんだ!」
小松田はきょとんとした。
仙蔵は至極真面目腐った顔をした。
「私は利吉さんから話しかけられていたとは思っても見ませんでした。小松田さんと楽しげに話していらっしゃったもので」
「僕に話しかけてた? 僕突然頭が痛くなって、目の前に星が飛んでて、なんだか一瞬よく判らなくなったんだけど」
仙蔵は人を食った態度だった。
小松田は至極真面目であった。
「……もういい。小松田君、さっさと保健室行ったら?」
「はい、ご心配頂き、大変ありがとうございます。学外に出られるときは事務室によって出門表を記入の上バッジを返却して下さい。僕が居ない場合は他の科の事務員でも構いませんので」
「はいはいはいはい」
うんざりした利吉の返事が聞こえていない小松田は、丁重にお辞儀をした後、先ほどと打って変わって転びそうなとろい足取りで映画棟の方へと消えた。
「三年の時の演奏会で何があったんですか?」
「君は聞いていたんじゃないか……」
「聞いていましたが、私に対して話しかけていたとは露程も思えなかったのです」
しゃしゃあと言い切る仙蔵に対し、さっきまでの険悪さは無いまでも、顔を引きつらせた利吉が「君も食わせ物だね」とポツリと言った。
しかしそれは仙蔵にとっては褒め言葉である。
「どうもありがとうございます。ところで僕の質問は利吉さんに向けてのものだったのですが、返答は頂けますか?」
利吉は本日何度目になるかも判らないため息をついた。
「曲の発表の時、小松田君に伴奏を頼んだんだよ。フルートのための曲だったんだけど」
「その時小松田さんは、ピアノ科だったんですか?」
「選択ね。一年だったんだけど、ピアノの前では妙に凄い子がいるって聞いたもんだから。で、その結果僕は危うく単位を落としそうになったわけ」
「何故ですか、と聞けば宜しいでしょうか」
「ホント人を食った性格してるね。世渡りも得意なんだろうね君は。――そう、小松田君の事。小松田君はピアノは弾けるけど、楽譜通りに弾けないんだよ」
「と言いますと」
「作曲家の意図したとおりには、絶対、ぜっったい弾いてくれないわけ。ベートーベンだろうがショパンだろうがメンデルスゾーンだろうが、小松田君の手にかかれば、異常なアレンジをなされて演奏されてしまう。全部小松田君風になるんだ。結局、僕が作った曲は提出した楽譜とも違うって事で先生には怒られるし、フルートを吹いてくれた子なんか本当に惨めだったっていって泣いちゃったし、審査の教授陣からの反応も散々だった。あと前日まで譜読みしてなかった事もあったし」
利吉の長い話は、実際はもうちょっと色々あった。要約するとこんな感じだ。というのを仙蔵は後に友人に語っている。
それはそうと、利吉と小松田の行動を面白がっていた仙蔵、新たなたくらみを思いついた。
「判った? そもそも小松田君に伴奏を頼むなんて事が無謀すぎるんだ」
「面白そうですね」
「そうなんだ。……え?」
とてつもなく悪い思いつきだと利吉は後になってから実感しただろう。そして仙蔵と彼の友人達はこれ以上なく、楽しい出来事だったと言うだろう。
「やっぱり作曲お願い出来ませんか?」
「君の所のを? だから嫌だって」
「そこを何とか!」
滅多に下げない頭を下げまくった仙蔵、見事利吉との約束を掴む。
そしてさらにその日、小松田に演奏の依頼を正式にしに行った。勿論二つ返事で引き受けてくれた。
こんなに楽しい事はない。マンネリだと文次郎は言っていたが、この二人がいればさらに騒々しい大騒ぎができるに違いない。確信していた。次の会議が楽しみだ。