気まぐれ仕事に後が恐い


 授業が終わって直ぐだ。昼休み始まりの鐘が鳴るよりも早い時間に、五年の久々知兵助は食堂へ向かった。他の学級よりも授業が早い時間に終わったため、狙っていた人気の献立を悠々と注文することができた。
 それも食い終わって一人茶をすすっている時だった。
「久々知先輩、お茶もう一杯いかがですか」
 声に反応して顔を上げると、四年の綾部喜八郎だった。手にすすけた急須を持って呆然と立っている。視線は兵助でなくどこか遠くを悠然と見渡しているようにすら見えた。
 何にもそぐわない異様な出で立ちであるとも言えたし、そこにあって然るべき存在であるようにも見える、不思議な風体だ。
「どうぞ」
 兵助が答える前に、空になっていた湯飲みに濃い番茶が注がれた。人の話を聞かない喜八郎らしい事だ。兵助は一応礼を言い、湯飲みを持ち上げた。
「あれ」と口にする寸前で驚きの声を上げる。
「茶柱だ。縁起が良いな」
 覗き込んだ緑の湯の中に、兵助が言うとおり茶柱が立っていた。
「珍しいでしょう」
「そりゃめったやたらにあったら縁起も何もあったもんじゃないしな。それにしても今日は良い事がありそうだ」
「喜んで頂けてよかった」
 と言う喜八郎の顔が、多少好奇心に輝いている。
「何か言いたそうだな」
「判ります? 先輩、もう一杯いかがですか」
「じゃあ頂こうか」
 その時兵助の湯飲みはまだ空になっていなかったのだが、喜八郎が何かを言いたそうにしていたので、兵助は望みの通りにぐっと熱い茶を飲み干し、次の一杯を待った。
 再び満たされる湯飲み茶碗を何気なく観察していると、兵助は再び「あれ?」と声を上げた。
「また茶柱が」
「面白いでしょう。この急須は昨日古道具屋で買ってきたものです。茶葉の方はさっきおばちゃんに頂いたんです。どうしてか、この組み合わせだと必ず茶柱が立つんです。先輩は縁起を担ぎそうなので、こういうのを喜ぶかと思いまして」
 喜八郎は微かに、親しい人間でないと判らない程度に得意気に笑った。その姿に、兵助は思わず苦笑する。
「その種明かしがなければもっと嬉しかったんだけどね」
「そうですか?」
「めったやたらに起こる事だと判ってしまうとね。だいたいにおいて縁起がいいという物は、珍しいからおめでたい」
「ああ、そういう意味ですか」
「どういう意味だと思ったんだ?」
「さあ、さっぱり検討も付きませんでした。でも久々知先輩の反応はいいですね」
「うん?」今度は兵助の方が何の事か判らなかった。
「さっき立花先輩や潮江先輩にも見せてきたんですが、あの人達の反応と言ったら、つまらないの一言です」
「一蹴されてしまったのか」
「いえ、つまらないと言ったのは僕の方です。先輩達の反応がつまらなかったんです。それに比べて久々知先輩の反応は、予想通り普通で非常に甲斐というものがあります」
「それは誉められているのか」
「一応そのつもりですが」
 眉一つ動かさずに言ってのける後輩を、また苦笑して見た。


「喜八郎は面白いな。他のやつらにも試して来たらどうだ?」
「そうします。ちょうど人も増えましたし、次は滝夜叉丸と三木ヱ門です。あの二人は突発的な幸運に対してどんな反応をするのか、とても気になります」
 確かに、全ての事象を自分の実力の結果であると言い切る、自惚れの強いあの二人組は反応が予想出来ない。兵助の方も興味を抱き、増えてきた人の流れの中に、噂の二人がいないかと見渡してみる。
 だが二人の姿はない。そもそもこの場にいる四年生は、喜八郎だけのようだ。
 鐘の音に遅れて流れ込んできたのは、兵助と同じ五年の生徒達だった。ただし組が違う。見る限りろ組とは組が定時に授業を終えたらしかった。
 人混みの中に見知った顔を見つけた。不破雷蔵の顔をしているが、あれは鉢屋三郎に違いない。
「おい、三郎――」
 兵助が声をかけたにも関わらず、三郎は返事もせずに立っていた喜八郎の隣をすっと通り抜けていった。おばちゃんに注文をが殺到している売り場の人混みへ紛れ込み、あっという間に所在が判らなくなる。
「どうしたんだ、あいつは」
「無反応でしたね」
「よほど腹を減らしていたのか? それにしても雷蔵はいないし」
 鉢屋と同組の雷蔵は、必要に迫られない限りはたいてい一緒に行動している。加えて変装名人の三郎は、特別理由が無い限り雷蔵の変装をし続けている。
 妙な絆で結ばれた二人が、自由時間であるはずの昼休みに別行動を取っているというのが、不思議というよりも不気味である。
 だいたい、三郎の大好きな「人を驚かす」という行動は、同じ顔である雷蔵とともに行動しているからこそ強調されるのだという風に本人が思っている節がある。
「あれ?」
「どうした」
 喜八郎が両手を兵助の目の前でパッと開いた。
「急須がなくなりました」
 その通り、先程まで喜八郎が握っていた茶柱急須が忽然と姿を消している。周りどこにも落ちてはいないし、喜八郎が無意識に近くの机へ置いたわけでもない。ただ忽然と姿を消した。
 盗まれた?
「何も気がつかなかったか」
「はい。でもさっきの鉢屋先輩ですよね」
「そうだな、少なくとも三郎の外見をした人物に気を取られて目をそらした間だ」
「鉢屋先輩じゃありませんでしたか?」
「雷蔵ではないと思うんだけど。でも怪しかったからな、あいつ」
 空になった喜八郎の手を見て、兵助は軽く唸った。なんでまた犯人は急須なんぞを盗んでいったのか? 考えてもよく判らない。


 喜八郎と顔を見合わせ、しばし無言で考えにふけっていると、誰かに背中を叩かれた。
「よ、兵助。もう食べ終わったのか?」
「三郎」
 問題の鉢屋三郎である。当人はやはり予想通りというか、何事も知らぬような顔をしている。
「おれの組は午前中早かったんだ。三郎は今からか? 雷蔵はどうした」
「あいつはまだ何を食うか決めかねて廊下で唸ってる。暫く待ってたんだが、どうも腹の虫が疼くもんだから」
「お前は何にした?」
「それがぼくもまだ決めてない。おばちゃんの顔でも見て決めようかと思って。隣いいか? すぐ買ってくる」
 久々知と三郎は同じような仕草で(三郎は変装のために時折仕草を真似たりするのだ)、人混みの方に視線を向けた。先程見た、三郎らしき人物はどこにも見えない。だからといって、格別怪しい人間が一人増えているという事もない。
 久々知は訝しく人混みを見、喜八郎はそんな二人の先輩を観察していた。
 さっきの状態で急須を盗む事が出来たのは、あの鉢屋三郎らしき人物かもしくは久々知兵助だけだ。どちらかというと兵助の方がその機会はあったように思われる。友人に声を掛けるふりをして喜八郎の視線を逸らし、その間に急須を掠め取って机の下にでも隠せば、簡単に消えたように見せかける事が出来る。
 だがそのような事はあり得ないだろう。「他の人間で試してみろ」と言った側から妨害するなんて変な話だし、何よりそんな事をして兵助に何の得があるというのか。やはり先程後ろを通った人物が掠め取っていったに違いない。
 所謂「巾着切り」をやられたのだ。「巾着切り」とはつまりすりの技法、懐中物を掠め取る方法で、授業でも応用技術として指導がある。本職とする人間ならば、面と向き合っていても全く気付かれずに掠め取ってしまうという。それが得意な生徒がいても不思議はないだろう。
「人多いな。雷蔵が来るまで待つか」
「ちょうど飯時だから仕方ないさ。さて、おれはもう行くぞ」
「用事でもあるのか?」
「ちょっと気になることが出来たんだ。それにおれが席を空けないと、雷蔵が座れないだろ」
「そうか」
 兵助は立ち去った後も、廊下からしばし三郎の様子を伺っていたが、何ら疑わしいところはなかった。
 廊下で献立表を見ながら悩んでいる雷蔵も同様だった。彼は矢も盾も利かぬような根の詰めた悩みぶりで、兵助が「三郎が中で待っている」と告げて漸く動き出した程だ。いつも通りである。疑うだけ無駄だ。それに二人が急須を盗む理由も見あたらない。
 それを言ったら、急須を盗む理由を持った人間など想像も付かないのではあるが。


「どうして鉢屋先輩に化ける必要があったのでしょうか」
 食堂のある校舎を出た所で、喜八郎が口を開いた。ずっと考え込んでいたらしい。
「三郎じゃなくて雷蔵に化けていたんじゃないか。あいつなら迷い症があるから、しばらくは食堂に立ち入らないと大抵の者ならば判断が付くだろう。だから本人の居ぬ間に、何食わぬ顔をしてなりすまし食堂で歩き回ることができる。で、おれと喜八郎が気がついて声を掛ければ好期。というわけだ」
「でも先輩は鉢屋先輩と言いましたよね?」
「雷蔵のニセ者だと思ったからな。こう言うと三郎は嫌がるけど、いかに変装の上手い人間でも、結局は別人なんだから演技臭さというのは感じるさ」
「はあ、僕はそういうのは中々判りません」
「慣れもあるだろう。おれはあの二人とも長い付き合いになるからな。だがそれにしても中々の腕だった」
「上級生でしょうか」
「教師の可能性もある。だが、巾着切りなんて真似をするのは六年辺りだろうな。作法の立花先輩なんか、非常に変装も上手いし手先も器用で条件は揃っている」
「立花先輩がそういう事をする理由もありませんが」
「どうかな、あの人は結構愉快犯じゃないか。……判った、怒らないで」
「僕は怒ってます?」
「そういう目をしている」
 喜八郎は視線を明後日の方へ向け、何度か目を瞬かせた。そしてまた兵助と目を合わせたが、呆然として何も言わない。どうやら先輩を批判された怒りもそこそこに、深く考え込んでいるらしい。もしかしたら盗まれた急須はお気に入りで、先程からずっと衝撃を受けていたのかもしれない。
「綾部は昼休みは予定在る?」
 いたたまれなくなって、兵助の方が口を開いた。
「さっきまであったんですが、無くなりました」
「あ、そうか。滝夜叉丸と三木ヱ門に試すわけにもいかなくなったもんな。じゃあちょっと色々当たってみようか」
「当てがあるんですか?」
「さしあたっては急須をどこで買ったか、だな」
「かんらか橋の袂にある古道具屋です。あ」
「あ?」
 喜八郎が指さした先には、先程話題にしていた平滝夜叉丸と田村三木ヱ門がいた。騒がしく口論しながらこちらへ向かってきている。
「喜八郎! 探したぞ」
「何で?」
「次の実習の準備をすると言っただろ! 早い者勝ちの競技なんだから、先手先手を打たなければ」
「だが喜べ喜八郎、学年一、いや学園一成績優秀であるこの滝夜叉丸と組むとなったのだから、大船に乗ったつもりで」
「何が学園一優秀だ。それを言うなら学園のアイドルにして石火矢など過激な武器を扱わせたら忍術学園一であるぼくが」
 さっきから二人はこういった内容の会話を飽きることなく繰り返している。
「大変だね」人ごとながらため息が出た。
「慣れてます。じゃあ、行かなきゃいけないみたいなので。それならほら、二人とも早く行こう。準備って何をするつもり?」
「資料集めからだ」
 喜八郎は当人の言うとおり、慣れた様子で二人の言葉を聞き流しながら対応していた。上手いものである。
 喜八郎が間に入ると、自慢のし合いも多少ゆるむようだ。それでも話の脱線する事の多い二人の同級生を相手に、何とか実習の内容まで話を漕ぎ着けた喜八郎は、当初の目的を確認すると兵助の方へ向き直り頭を下げた。
「ありがとうございました。あとで探します」
 と言って黙る事のない滝夜叉丸と三木ヱ門を連れ、教室の方へ向かった。



 滝夜叉丸は薄紅色の牡丹が大胆に飛び交う派手な普段着に、髪にはこれまた派手な簪を挿し結い上げた目立つ恰好で町を闊歩していた。出で立ちだけならば道楽者のようだが、本人はいたって真面目だ。自惚れの強いところに目を瞑れば、真面目すぎて堅苦しいとすら思える事もある人格であるために、その恰好の異様さは別な意味で半端ではない。
 その滝夜叉丸と並んでいると、喜八郎は透明人間になったかのような気になる。だが別段それが悪いという事はない。
「滝夜叉丸は何かあったの?」
 綾部の言うとおり、滝夜叉丸は機嫌が悪かった。何がおかしいと誰が指摘出来るわけでもないが、彼は今猛烈に機嫌が悪かった。いや機嫌が悪いというか、咽に小骨が咽に刺さっているかのような、切実で微かな傷があるように見える。
 話しかけられた三木ヱ門が口をちょっとつり上げ、参ったとでも言いたげに虚しく笑った。
「昨日の試験?」
「ああ、知ってるならわざわざ聞くな」
「確認したかっただけ」
 まだ文句のありそうな三木ヱ門の視線を無視して、喜八郎は不機嫌な滝夜叉丸を横目で盗み見た。
 妙に明るい。彼の暗いところなどあまり見た事は無いが、それにしても痛々しい程に明るい。変に前向きになって、大声を張り上げて行動している。自分を語るのもいつもの一.五倍増しだという事は、近しい者でなければ気がつかないだろう。
「そんなにきつかったかな」
 喜八郎が何気なく呟くと、
「どうした?」前を歩いていた鉢屋三郎が振り返った。
「いえ、何でもないんですけど」
 さっきの急須の事もあり、喜八郎は何となく三郎を信用する気になれなかった。多分無関係なのだろうとは思うが、しかし同じ顔の人物にあれを盗まれてしまったのは事実である。こういった事があると、大抵の人間は身構えてしまうものだ。
「それよりさ、この先どうする? 取り合えず出てきたのはいいけど」
 同じく普段着姿の不破雷蔵が後輩三人を振り返った。薄い布を手に広げていて、煤けている茶色の布には近くで見ないと判らないような色の沁みが点々と綴られている。
「まずもって、課題の内容についてはこれしか手がかりがない」
 町内に紛れている間者が連絡係に託した密書を探せ、というのが今回の課題だ。雷蔵が説明するところでは、敵役は六年生が務めているが、あちらから何か行動を起こす事はないと言う。また、今回は情報調査を中心とした訓練のため、あらゆる暴力は使用禁止とされた。
 それを聞いた三木ヱ門が不満そうに鼻を鳴らした。彼は出発前に、持ち出そうとしていた石火矢を教師に没収されていた。
「つまらん」と言うのである。
「派手な武器を使えないのでは、やる気も起きないな」
「貴様はそれしか脳がないからな」
 わざわざ言わなくても良いような事を言ってしまったのは、彼がやはり不機嫌だったからだろう。それを知っていてもつい三木ヱ門の方も挑発に乗ってしまう。
 だいたいいつもなら、必要もないのに相手を卑下するような物言いはしないのだ。己の評価に関するのであれば勿論別ではあるが。
「止めなよ、先輩達の前で恥ずかしい」
 みっともないと喜八郎が言うとおりで、先輩二人だけでなく道行く通行人も、激しく言い争う少年二人に好奇もしくは迷惑そうな目を向けている。


「喧嘩するほど仲が良いとは言うけど、いつもああなの?」
「だいたいいつもああですが、仲が良いのか悪いのかは判りません。放っておけば勝手に沈静化するんじゃないでしょうか。それよりも、他に手がかりは無いんですか」
「課題の?」
 聞き返した雷蔵は些か困惑した表情だった。
「他に何がありますか」
 雷蔵が一々聞き返したのが、多少喜八郎の勘に障ったのは、やはり先程の急須の事件が尾を引いているからだろう。煮え切らない性格だというのが気にくわないわけではない。だが犯人と同じ顔であるだけに、何となく悪印象が残ってしまっていた。
 当の本人はそのように思われているなど知るはずもない。必然、焦ってしまう。
 怒らせたのだろうか、それとも他に何か? と思案し始める辺りが、優柔不断な雷蔵らしいといえばらしいが。
「四年は随分喧嘩っ早いんだな」
 刺々しい喜八郎、そのために思案し始めた雷蔵の様子に、三郎は呆れ声を上げた。少し離れた場所で未だ険悪な滝夜叉丸と三木ヱ門に対しても、同様に呆れている。
「課題が先だ。とにかくこの町中で、ちっぽけな密書を手がかり無しで探さなければいけない。これはそう簡単にはいかない」三郎が難しい顔をして言った。「そこで、まずは知恵をお互い絞り出さなければ」
「お互い?」
「四年、五年お互い」
 学年で一括り、ということは喜八郎はこれでもかというぐらい言い合いを続けている滝夜叉丸、三木ヱ門両者と同列扱いをされている。いつもならそれほど気になる事ではないが、背後で恥をまき散らす二人を見るとあまり良い気分がしない。
 ため息が出た。
「どうかした?」と雷蔵が聞くので、
「なんでもありません。それにしても手がかり無しで、一体どこから手を付けましょうか」
「密書といっても書であるとは限らないし、判っているのは敵役が六年だということだけだ。そこで、町内を探索して六年らしき人物を探すのが先決になると思う」
「今回は町の人に怪しまれても失格だから、あからさまに探し回るわけにはいかないよね。だからのんびりみんなで歩き回るしかないかなぁ」
「いえ! ここは手分けして探すべきです!」
 既に審査の教師から大幅に減点されているのではないかと不安になる程に人目を集めてしまっていた滝夜叉丸が、これでまた減点されているだろう大声を上げた。
「こいつと! 一緒に探し回るなど、時間の無駄、私一人で調査した方が」
「その思い上がりはどこから来るんだ! こっちこそお前と一緒に……」
「じゃあ四、五年で別れましょうか」叫び声を打ち切って喜八郎が言った。
「二、三人で、ちょうど怪しまれないぐらいの数でしょう」
「でも同じようなものを探している集団が二つ、っていうのも怪しいじゃないか」
「待て、それだと結局三木ヱ門と一緒……」
「五人連れで何だかよく判らないものを探し回るのも相当怪しいでしょう。どこに行きますか? 僕らは先輩達の反対に行きます」
 結局、喜八郎が有無を言わせないので二組に分かれる事になった。



「どうして、滝夜叉丸なんかと行動を共にしなければならないのか」
「ちょうど良いじゃないか」
「何が?」
 三木ヱ門の耳元に口を当てて、
「滝夜叉丸の機嫌を直すには」
「どうしてあいつの機嫌を取る必要がある?」
「だってずっと不機嫌でいるよりはいいじゃない。六年が関わってるって聞いてまた荒れてる」
 喜八郎が指さした先の滝夜叉丸は、町をぶらぶらと歩き回る三人組の先頭を仕切りつつも、大股で明らかな苛立ちを見せながら歩いている。後ろでこそこそと話し合う喜八郎と三木ヱ門の会話は聞こえないまでも、何かしら感づいてはいるだろう。だが何か思う所があるのか、あえて振り返ろうとしない。
 喜八郎は肩を竦めるそぶりを見せた。それを見て三木ヱ門が眉を顰める。
「確かにいつまでも不機嫌でいられては、こちらも迷惑というものだ」
「三木ヱ門まで不機嫌になるしね。それにさあ、不破先輩と鉢屋先輩に」
「僕がいつ不機嫌になったというのだ!?」
「あの二人の先輩よりも先に見つけたくない?」
 喜八郎は三木ヱ門と会話しつつも、本心の意向は別なところにあった。それに二人が同意するかどうか判断尽きかねたので、黙っているのだが。
 先程滝夜叉丸が別行動を言い出してくれたのを、内心では助かったと思っていた。
 あの二人が犯人ではないと兵助は言っていたが、はっきり疑いが晴れたわけでもないし。
「先に見つけると言うと」
「だからさ、さっき先輩達も言ってただろ。お互い、だよ。四年、五年であっちは勝手に組み分けしちゃってるんだよ?」
「それがどうした」
「わかんないかなあ」
 言って判らないのなら、説明しても無駄だと感じた喜八郎はそれ以上何も言わなかった。実を言うと喜八郎自身も、明確に説明出来るような原因があるわけでもないのだが、とにかく先程の「お互い」という言葉は引っかかった。
「私は喜八郎に賛成だ」
 くるりと振り返った滝夜叉丸が言った。気障ったらしく髪を掻き上げる仕草まで、いつもよりも過剰に見える。
「五年生よりも先に密書を見つけ出した、となれば私の実力が五年以上であることが明々白々に照明されるであろう! 学年一の成績を誇るこの滝夜叉丸の力があれば、そう難しい事でもない」
 と、滝夜叉丸は大見得を切って見せた。こういった事は、日常茶飯事だ。何となく違うと言えば、切実さが籠もっている事だろう。
「はいはい」と喜八郎は適当な相鎚を打ち、
「やっぱり機嫌を直すにはやるしかないのか」
 三木ヱ門が呟いた。


 そして一方の三郎、雷蔵の二人も同じように頭を抱えていた。
「さっき、あからさまに『やばい!』って顔しちゃったからなあ」
 雷蔵が言っているのは、課題について喜八郎に聞き返された際に過剰に反応してしまったことについてだ。あのことは四年には報せられていないとは聞いていたが、もしや既に感づかれているのでは、と焦ってしまったのである。
「それを言うなら、僕の方にも不用意な一言があった。すでに感づかれたのかもしれないな」
「だとしたら、やりにくくなっちゃったね」
「あの綾部って子は、いつから気付いてたんだ?」
「いや、でも気付いていたとも限らないよ。もしかしたら単に機嫌が悪かっただけかも知れないし。断定するのは危険だ」
「だからってな……」
 兵助の顔が半笑いの呆れ顔に変わり、結論を出せずにいる雷蔵から目をそらした。
「いつまでも迷っていてもしかたがないと思うが」
「そうだけど」
 迷いが吉に向かう事も、時たま有りはするのだが。基本的にこの優柔不断の性格で割を食ってばかりの級友、その他が全く優秀なだけに、迷い癖がより大きな問題として目に映る。
 だが何度指摘しようと、とどのつまり性格というのはそう簡単に改められるものではないらしい。もうこうなっては指摘するのも、発展性のない一連のお約束のようになっている。
「あいつらどこに行くつもりだ?」
 三郎がそれとない仕草で、離れたところを歩く四年生三人組を指さした。彼ら二人は三人組とちょうど会話が聞こえないぐらいの距離を保って歩いている。時折用心深く回りを見回す後輩達の視界から、不自然でない動作でさっと人混み隠れた。
「別に当てがあるわけじゃないんだろ。暫くは放って、僕らは僕らで密書を探した方が早いかもしれないね」
「とは言えこちらも手がかりが潮江先輩だけだしな」
 やはり相変わらずの兵助の顔のまま、三郎は腕組みして立ち止まった。
「どうした?」
 道の向こうから歩いて来た若者に、三郎は突然声をかけた。
「それはこっちの台詞だ」
 若者が被っていた編み笠をひょいと持ち上げる。三郎と全く同じ顔が、笠の下から現れた。
「やあ、兵助」
「やあ、じゃないだろ、三郎。何だよその顔」
 そのような扱いを受けるのは全くの心外だとばかりに、兵助は何とも言えない顔をした。
 変装名人の鉢屋三郎、現在は目の前にいる久々知兵助と全く同じ顔をしている。違うのは身に着けている物ぐらいである。
 先程雷蔵と二人になった時に、同じ顔が並んでいては目立つだろうと話し合った結果だった。
「ちょっと顔を借りているだけだ。そっちこそ何をやってるんだ?」
「おれが町にいるとおかしいか」
「い組は授業無いんだっけ?」
「ああ。一昨日からの実習がやっと今日の朝終わったところでさ」
「そういえば他のい組連中は長屋で爆睡してたぞ」
「そうなんだけど、ちょっと用事で。あ、そうか、ろ組は課題中ってことか?」
 三郎がちょっと顔を逸らして、四年の三人組が道の向こうに見えなくなったのを確認した。
「四年と合同なのか」
「合同じゃなくて、対抗」
「三郎、見失っちゃうけど」
「じゃあ雷蔵が言ってたとおりに作戦変更。兵助、手伝えよ」
「お前らの課題だろう? 手伝って、おれも一緒に咎めを食らうのは御免だ」
「連れないな。一応話ぐらい聞いてもいいだろ、なあ?」
「え? でも課題規則違反になって失格になるかも」
「ばれなきゃ、何を使ってもいいんだ。忍者ってのはそんなものだ」
「おれは使われるのか……いや、別に暇でぶらぶらしてたわけじゃないから」
 と兵助が逃れようとしたが、
「ちょっと、の用事なんだろう」
 兵助は肩を竦めると、
「早く用事を済ませて寝たいんだ」
 と断固拒否の構えを見せた。


 とはいえ、結局は話ぐらいは聞いてしまった。
 何でも課題というのが、手の込み入った設定上で動かなければならない、特殊な状況下を想定したもので、四年は敵が隠した密書を探し出さなければならないのだが、五年の方は実はその敵方の間者で、密書を受け取る方なのだという。
「四年に先を越されたら負け。正体がばれるのはぎりぎり、減点だけ。問題なのは、僕らの方も、密書を誰が持ってるのかしか知らないって事なんだ」
 雷蔵は眉を下げてため息を吐いた。
「難儀だな」
「まあ、やってやれない事はないだろう。それに制限時間があって、その時刻を過ぎれば一応はこちらの勝ちになるんだ。だからさ、お前あの綾部って子と知り合いなんだろ? 時間でも稼いでくれないか」
「それは無理だ。授業中に油を売るような子じゃない」
「判った判った、お前だってそういうやつだよな」
「三郎こそ、真面目にやっても普通にちゃんと出来る癖に、狡なんかする必要もないだろ。じゃ、頑張って」
 そう言って、兵助は歩き出した。振り返り手を振った後も、三郎が顔を変える様子は無かったので、仕方なく再び編み笠を深く被りなおした。同じ顔が同じ町内を歩き回っていては、やはり問題が生じるだろうと思ったからだ。
 さてその時だ。上から人の気配が、微かに感じられた。兵助は屋敷裏を歩いていたのだが、その屋敷の壁には窓は無かった。ぴたりと足を止めて、誘いを見せる。どうしたものかと思案していると、鎖分銅が振ってきた。
「はっ」
 壁を蹴り、慌てて飛び退く。分銅が屋敷の塀にぶち当たり、白い壁が僅かに砕かれた。
 何とも悪趣味な。分銅は単純に投げ落とされただけだったが、まともに当たれば瀕死だろう。勿論相手は、兵助ならば避けられるという信頼の元に仕掛けたのだろうが。
 分銅が素早くたぐり寄せられる。屋根の上だ。


 ちらりと後ろを振り返るが、三郎と雷蔵は気がついている様子はない。或いは関わり合いにならないようにしているのか。とはいえ、分銅が壁を砕いた音も、兵助が飛び退いた際のかけ声も、路地の向こうから遠く聞こえる昼間の喧噪に掻き消される程度の慎み深さを持ってはいたのだが。
 兵助は自分に向けられた視線が頭上からのただ一つである事を素早く確認すると、土を蹴り、塀の上へ飛び上がった。気配はさらに上、屋根に登っている。もう一度足の筋肉に力を込めて軽く飛び上がり、屋根の端を掴んだ。なおも残っていた跳躍の勢いと腕の力でくるりと反転し、あっという間に兵助は屋根の上に着地する。
「中々だ」
「どうも。でも、中ではなく上ぐらいは付けて頂けませんか。自分で言うのもなんですが、一応、こういうのは得意ですので」
「こういうの?」
「体力的な事は――先輩、審査員か何かやってるんですよね。他に言うことは無いんですか?」
 ぶすっとして喋る兵助に、何がおかしいのか立花仙蔵はふふ、と笑った。
「話があるのは察しの通りだが、そう大した話ではない。いやしかし、そちらから上がってきてくれて助かったよ。ぼうっとして反応が無いようだったら」
 仙蔵は全く他意は無いような素振りを装い、手にした鎖分銅をくるくると腕の周りで旋回させた。
「出来るだけ自然に――それも一瞬にして――人を攫うにはどんな方法があるだろうかね」
「もしおれが後輩相手にそうする必要に迫られたとしたら、普通に近づいていって茶店にでも誘いますけどね」
「模範的だ。つまらん」
 ふと思い出したが、喜八郎がそのような事を言っていた。つまらないの一言、言ったのは喜八郎の方だったが、しかしこの先輩の話しぶりをまともに聞いていると、確かに喜八郎がそのように感じたのも無理はないと思えた。何が、とは言えないが、恐らく予想外の事象についての対処という点に置いて(つまり茶柱の立つ急須という問題について)、仙蔵では期待したような反応が得られなかったのは確かだろう。
「それで、なんのご用ですか?」
「ああ、実はな」仙蔵は最もらしく咳払いをして、「課題授業の手伝いをしてもらいたいのだが」
「はあ」兵助は現在自分が疲れているのだという事を暗に、しかし精一杯主張し、ため息とも相鎚とも取れない返答を返したのだが、仙蔵には全く効果が無かった。
「それはそうと、先程はあの二人と何を話していた?」
「大したことじゃないですよ。二人とも課題中だといって、お前と遊ぶ暇はないと言ってました」
 あの二人の成績に悪影響を与える気は全く無かったので、僅かに、もし真実が知れても誤魔化せる程度に嘘を付け加えて答えた。
 仙蔵は兵助の答えに満足したように、にっこり笑って頷いた。
「そういう風にして、不自然ではない程度に時々、彼らに接触して状況を確かめてもらいたいのだ」
「四年の方にもですか?」
「そうだ。四年と合同ということは聞いたのか」
「対抗だという事まで聞きました」
「ふうん、結構無駄話をしていたな。長いお喋りだと思ったが」
 仙蔵が懐から掌と同じ程の大きさの木板を取り出した。一方の面に墨で「五年ろ組、鉢屋三郎、不破雷蔵」と小さく記されている事から、点数の記録か何かか。その裏側には、幾筋かの線が刻まれていた。
 その面に、袖口から取り出した棒手裏剣でさらに筋が追加された。
 減点の表だ、と気がついた兵助は、無意識に庇おうとして、
「二人とも、おれからも町の情報を聞き出そうとしてました」
「なるほど。では、なんと答えた?」
「町に降りてくるのは久しぶりなので、最近の事は知らないと」そこで気がついて、さらに「ああ、でも来る途中で見た話なんかはしました」
 長話になった理由をつらつらとでっち上げた。
 嘘に嘘を重ねるのはつらい。何故おれはこの頭の切れる先輩の前で虚実を捲し立てているのだろうか。変装名人と優柔不断の友人二人の顔が頭を過ぎった。

十一
 よくよく考えれば、こう心苦しい真似までしてあの二人を減点から庇い通す必要もないのである。はいとかいいえとか適当な事を答えて、さっさと立ち去れば良かった。
 もう一つ言うならば、兵助の外出の用件がどのくらい困難なのか、本人にも見当が付いていないのだから、忙しいのだと言って断る方法だって存在した。あの先輩に通用するかどうかは別として。
 なんで、おれが? 訊ねよう訊ねようと機会を待っていたが、完全に押しつけるように言いくるめられた。
 そして結局、兵助は今、四年三人組の様子をその背後から伺っている。兵助の所からは、彼らが何を話し合っているのか判らない。単純に何の目的もなく町をぶらついているようにしか見えないが、まさか彼らに限ってそういう事はないだろう。
 どうして近づいていって声を掛けないのかというと、それはそれなりに理由があって、
「ここであったが百年目!」
 と突如、浪人風の男に絡まれたからだ。いや、正確に言えば絡まれたなどという呑気な状況ではない。突然背後から口を封じられたかと思うと、薄暗い脇道に連れ込まれ、その上で喉元に刀を突きつけられた。今朝まで続いた実習のために溜まった疲れが、強烈な眠気に変わった瞬間の気のゆるみだった。
 背後から羽交い締めにされているため、相手の顔を確認出来ないので本当に百年目なのかどうか判らないが、あちらが兵助に面識があるのなら、兵助の方もおそらくは面識のある人物なのだろう。男の方も些か動揺している声調子なので、後を付けられていたとか狙われていたとかでは無いらしい。
「盗み出したものは、いずこか、早う吐かんと命がないぞ」
 吐くも何も口を封じられている。相当焦っている様子の男はさておき、兵助は横目で四年連中がこの男と似たような風体の侍に絡んでいるのを遠くに見た。
 兵助が口をもごもごさせていると、つまり何も言わないのは男の手が口をふさいでいるからだと気がついたらしく、ぎこちない動きで骨張った手が頭蓋骨から離れた。変わりに片側の肩を強く押さえられる。
 それにしても危機には違いないのだが、疲れの残る頭が事象の発生を拒絶しているような感じで、どうもやる気が起きない。
「人違いではないか」とぼけてみたが、
「昨晩の月明かりで見た顔を忘れるほど年は食っておらん」
 こいつはそのぐらいの年齢なのか。いやそんな事よりも面倒な事になったぞ、と今更ながら頭が働きだした。そうだ、この男の声もあの四年に絡んでいる侍にも見覚えがあるぞ。
「あれは、知り合いか何か?」
「あれ?」
 兵助は豆粒ほどの大きさになりつつある後輩三人組と、何やら揉めているらしい男を指さした。あまりにも何気なく動いたので、そのとき今更のように気がついたが、両手は自由だった。
 男が視線を遠くへ向けた瞬間に、喉元の刀が僅かに揺れた。もちろん、兵助はその瞬間を見逃さない。
 刀を握る右の拳を掴むと、力任せに捻り上げた。
「ぎゃぁっ」
 短い悲鳴を上げて、男は刀を落とした。一瞬、何が起こったのか判らないような様子だった。
「この、小僧め!」
 我に返って兵助に握り拳を向けたが、もう遅い。自由になった兵助は素早く体を反転させた。
 パァン、と小気味よい音が鳴り響く。男は兵助に顔を張り飛ばされて悶絶した。
 男がぐらりと倒れる。
「しまった」思わず独り言ちた。
 力の加減を誤ってしまった。やはり少し眠気に負けていたらしい。
「なにが、しまったなんだ?」
「七松先輩」
 いつから見ていたのか、町人風に変装した六年の七松小平太が、路地の向こうから声をかけた。
「上手く伸せたじゃん。真剣で脅されながら刀も持たずに、ずごいな。骨法の方が得意なの?」
「確かに剣術よりも得意ですが、御覧になったとおりの程度です。先輩も審査員ですか?」
「うん。兵助が何か襲われてるのを見てたら、四年、見失っちゃったけどな!」
「追いかけないと」
「長次がついてるから平気だよ。それより、そいつなんだけど、知り合い?」
「昨日の夜にちょっと目があった程度なんです」
「そして今日の昼には命を狙われたか! 忍者だな、それは!」
 脈絡がない。兵助は取り合えず、何の事やら判らないという顔をしてみた。

十二
 さて四年の一団も、同じような輩に絡まれていた。
「あれは六年の変装だと思うか?」
「さあ? 天才の滝夜叉丸なら判ってるんじゃないの。ただ、どう見ても立花先輩ではなかったかな」
「潮江先輩でもない」と三木ヱ門。
「七松先輩でもない。そして中在家先輩や善法寺先輩でもない。私たちの組に関わっているらしい上級生は、他の組の課題内容や条件などから考えて、他にはいないだろう」
「ということは?」
 三人は町内の人気のない方面へと走っていた。
「ただの酔っぱらいか何か」
「お粗末な推理だな。どうしてただの酔っぱらいが「密書を出せ!」なんていちゃもんをつけるもんか」
「では何だというのだ」
「密書を探しているお侍」
「三木ヱ門の推理だってそのまんま過ぎて面白くないよ。ところで、後ろついてきてる?」
「足音で判らんか」
 滝夜叉丸が振り返るまでもなく即答した。背後には忍びの者とは違う重たい足音がどすんどすんと響いている。侍はそれなりに鍛えているらしく、もう相当長い距離を走り通しているのだが、息は切れていない。だがあまり足の早いほうではないようで、追いつかれる気配はなかった。
 三人は敢えて一定の距離を保って走っている。
「判るけど聞いてみただけ。どうしようかな……」
 三人に絡んだ侍は、捜し物をしている彼らを見て突然声を上げて絡んできた。道の真ん中で大騒ぎをされた挙げ句、話が通じないと見るや侍は刀を抜いた。それで丸腰の三人は揃って走り出したわけだが。
「先導するお前がそんな事を言うなよ、不安になるじゃないか」
「田村も不安になったりするんだね。まあ考えがあるから」
「落とし穴だろう」
 滝夜叉丸が指摘した時、三人は河原にさしかかった。細い川だが水量は安定していて、土手には身の丈ほどもある草がぼうぼうに茂っている。
「僕が歩いたところを歩いて」
 喜八郎はそのまま先頭に立って、草むらに入った。
「隠れずに出てこぬか!」
 男は慌てて自分も草むらに飛び込む。六尺以上はあるだろう葦の群生に視界を奪われ、今自分が追いかけている相手がどこにいるのかさっぱりわからない。昨晩からの仕打ちに、頭に血が上ったようになって、めったやたらと刀を振り回して葦を切り倒して進んだ。
「どちらからおいでなさった?」
 姿は見えないが声が聞こえる。葦に音が吸われるせいで、遠いところから響いているようにも思えるし、もう一歩というところでせせら笑っているようにも思える。
「うぬぬ、からかうつもりか」
 ますます逆上した侍は、勢い余って走り出した。
 途端に足にぬるりとからみつく泥の感触。地面が無かった。
「うおぅ!?」
 事態を認識した時には既に片足は膝ほどまで沈んでいて、慌てて抜こうと藻掻いたものだから、逆の足まで泥沼に嵌ってしまった。ずぶずぶと沈んでいく。
 ちょうど人一人分ぐらいの穴が、葦の下に口を開けていた。
「こんな所に、いったいつ罠をしかけたのだ?」
「川で遊ぶ子どもが落ちたらどするつもりなんだ……」
「別に僕が掘ったわけじゃないんだけど」
 葦を掻き分けて、滝夜叉丸、三木ヱ門、喜八郎の三人がひょいと顔を出した。
「元々この河原は地形的に底なし沼のようになっている所がいくつもあるんだよ。だから土地の者は決して近寄ったりはしない。なのにあなたは、ずかずかと何の用心もなくここに入ってきた。つまりあなたはよそ者なんだね。聞こえてる?」
 喜八郎が淡々と語りかける。男は既に既に沈みきっていて、刀を握った手を辛うじて沼から出し、力なく藻掻いている所だった。


十三
 三人が協力して男を沼から引き上げたが、もがきにもがいた末、たっぷりと泥を飲んでしまった男は意識を失っていた。
 助けるべきか否か、という話になって、
「そもそも何者だ?」
 何度目かの疑問を、三木ヱ門が口にした。
「起こして聞けばいいんじゃない。その前に縛っておいた方がいいかな」
「こいつ、課題に関係有るんだろうか」
「無いとしても捨て置けまい。このままでは息が詰まって死んでしまう」
 滝夜叉丸の指摘の通りだ。三人は顔を見合わせた。
「人助けだと思えば、仕方がないか」
 滝夜叉丸が先だって言い出したので、他の二人は内心ほっとした。むろん人命がかかった事態なのだから、我が儘を言っている場合ではないのだが――。
 喜八郎が男の手足を縛り上げるのを待たずに、滝夜叉丸は横たわる侍の顔を持ち上げた。中年侍だ。精悍な面構えだが、顔までそのたくましさが表れすぎていて多分に厳つい。当に野を駆け戦に生きる武士という感じで、泥に汚れた顔も寧ろそのままの方が相応しいのではないかと思えた。
 だがだからこそ躊躇ってしまうのは、致し方のない事だ。
 意を決して(と言っても、迷ったのはほんの一瞬だ)、滝夜叉丸は男の鼻と口を交互に吸った。泥水を吐き出す。それを二、三回繰り返した所で、三木ヱ門が男の腹を押した。
 がぼっと残った泥が吹き出して、男は息を吹き返した。蘇生したのだ。それを確認すると滝夜叉丸は、
「口を洗ってくる」
 葦を掻き分けて川の方へ向かった。
「沼に気をつけて」
 多分大丈夫だとは思うが、喜八郎は彼に何かしら声を掛けずにはいられなかった。
 滝夜叉丸の消えた方向を怪訝な顔で三木ヱ門が見ている。
「機嫌が悪いというか何というか、自暴自棄になっているというか」
 自分の言い方にちょっと顔をしかめた。相応しい言葉が思い当たらなかった。
 いつもの滝夜叉丸ならぜったいにしない、というような意味ではない。人命が掛かっているのだから、こういう事に関しての責任感は人一倍だ。恐らくどんな状態でも率先して動いただろう。
 怪訝に思うのは、滝夜叉丸のあっさりした態度の方だ。常の状態なら、もっと恩着せがましいような事を言っただろうし、実際今はそのような発言をするに相応しい状態だった。のわりには、殆ど無言だ。
 喜八郎も滝夜叉丸が本調子ではないことを感じていたが、やはりそれをどう表現していいか判らなかった。
「でも素晴らしい行いだよね。一人生き返らせたしさ」
「それはそうだが」
 そもそも喜八郎がここに誘い込まなければ、こいつも死にかける事はなかったのではないか。そうは思ったが口にしなかった。喜八郎の機転がなければ、今頃自分たちの方がどうなっていたのか判らない。なにせこちらは丸腰でしかも課題の制限のため武術が使えないときている。その状態で、刀を抜いたこの強そうな侍の相手をしなければならなかった。最悪の場合切られていたかも知れないし、でなくとも課題の不合格が言い渡されていたかも知れない。
 ぞっとしない事でもなかった。
「さて、彼が口が聞けるようになるまでここは待つべきかな」
 この話題は打ち切りだとばかりに、喜八郎が言った。


十四
「君たちの話で、人違いだったというのはわかった。だから、縄を解いてくれんかね」
 横たわったまま、ぐったりとした男は喜八郎に尋ねた。
「だってまた暴れられたら困ります」
「間違いだと判ったのだから、もういいだろう」
「どうして間違いだと判ったんです?」
「だって、そりゃあ」男が横を向いて三人の顔を順繰りに見た。「落ち着いてみれば、全く見覚えがない」
 間の抜けた受け答えに、三木ヱ門が軽く吹き出した。
「じゃあ頭に血が登っていたとでも言うのか。酒が入った顔でも無いが」先程の滝夜叉丸の推理を思い出して、クスリと笑った。
「間違えたのには、理由があるのでしょう」
「うむ、まああるにはあるのだが、そちらが笑っている通りに、やはりこれもまた間抜けな話となるだろうか。いや、昨晩にちょっとした強盗に出くわしたのだが、その強盗を一瞬だけだがはっきりと見たのだ。それが、その」
「誰かに似ていました?」
「いや、やはり似ていない。君たちは捜し物をしていたな?」
「はい」
「私は強盗を追ってきたのだ。正確に言うと、盗まれた物品の方だ。あの、もう言ってしまったと思うが」
「密書?」
「君たちも密書を探していると小耳に挟んで、つい、焦ってしまって」
 泥だらけの顔を情けない笑いに歪めた。
 男の物言いは結局、重要な事はぼかされていた。頭が悪いわけではないのだろう。
「どうする」三人の内誰とも無く呟いた。次いで、各々顔を見合わせた。
「私たちは、さっき言ったように、友人達との遊びで密書探しなんて遊びをしていただけだ。あなたが考えたような盗賊でも何でもない」滝夜叉丸が代表して口を利いた。「だがその密書探しのほうが、よほど面白そうだ。よければ、私たちもそれを探してみたい」


十四
 中在家長次は潜んでいた草むらからゆっくりと這い出た。観察対象の四年生三人組は、侍の紐を解いた後もなおそのまま、座り込んで密談をかわしている。
「にゃぁ」
 声を抑えた灰猫が、草だらけの長次の足にまとわりついた。
「しぃ……」口元に人差し指をちょん、と当てる。
 空いている方の手で懐から真っ赤な実を取り出した。よく熟れた胡頽子だ。四つ取り出した内の一つを自分の口に入れ、残りは猫に差し出した。酸っぱい。
 猫が一粒かみ砕くのを見てから、また懐から筆と、縦長の小さな半紙を取り出した。
「四年、首尾良く手がかりを得たり」
 そこまで書いて、手を止めた。軽く首を捻ると、思い切りよく引き裂いて風に飛ばした。
 ふと見ると、猫の胡頽子は残り一つになっている。自分の口と猫にもう一つずつ追加し、また新しい半紙を取り出した。
「敵遂に現れたり用心すべし」
 書き終わると半紙を捻り紙縒のように捻り、灰猫の首に結わえた紐の隙間へ差し込んだ。
 胡頽子を食べ終えた灰猫は、口の周りを血のように真っ赤にしたまま、どこかへ走っていった。
 長次は再び四年生の方へ向き直った。
 三人と侍が立ち上がり、別れる所だった。男は泥だらけの身を清めるためか、川の方へ歩いていく。それを見送った滝夜叉丸達は足の草むらを越えて街道に戻った。
 長次は慌てて身を再び葦の茂みに隠し、だいぶ過ぎ去った所で、また彼らの尾行を再開した。途中で小平太と擦れ違ったので、あのお侍の方を頼む、と伝えて自分は四年の方を尾行し続けた。

 小平太が河原にたどり着く前に、間の悪い事に――いや、二人にとっては間の良い事に、鉢屋三郎、不破雷蔵の二人組が川横の街道に現れた。三郎はまだ兵助の変装のままだ。
 身を清め終わった侍が、再度沼に落っこちぬようじっくり時間を掛けて上がってきた。そこに二人は出くわした。
「やや」侍は目を丸くする。三郎と雷蔵の二人は何の事か判らず、ただびっしょりと濡れそぼった異様な風体の侍との遭遇に驚いた。今日の空は果てのない遠方を思わせる陽気であるにも関わらず。
 今度は人違いではないだろうな、と男は口の中で何度か呟いた。
 同じく、三郎、雷蔵の方も怪しいな、と誰にも聞こえないような小声で言い合った。
 ほんの数秒の後、
「見つけたぞ!」
 男が叫んだ。

十五
「まさか、こっちが追われる目になるとは思わなかったなあ」
 雷蔵が呟いた。家の影からちらりとあの侍の様子をかいま見る。侍はまた同じように刀を抜いて追い回したのだが、そこはそれ、曲がりなりにも忍者のたまご、駆け比べで負けるはずはない。一度は捲くことが出来たのだ。四年と比べても、一年間の鍛錬の差が顕著に表れていた。
 だが逃れたとはいえ、男の怪しい風体と言動が気になる。もしかしたら課題に関係があるのかも知れない、ということで二人は物影から男の様子を伺っていた。
「どう思う?」
「喋りに訛りがあった。紀南の方かなぁ、その割には旅姿であるようにも見えないけど」
「紀南……そういえば、昨日までい組が実習してたのって紀南の沖見城じゃなかったっけ」
 紀南の沖見城といえば、忍術学園からは歩けば丸一日はかかる。だが夜通し走れば、鍛えた足ならば届かない事もない。確か兵助達はそうして帰ってきたはずだった。
「成る程、あれは兵助が失敗したって事か」
 言うと、雷蔵が三郎の顔を指さしてくすくすと笑った。
「何か付いてる?」
「いや、だって今、三郎は兵助の顔してるのによく言うなと思って」
「あ、そういえばそうだったな。だとするとより確信が持てたぞ。そうだ、あいつはぼくの顔を見て追っかけ始めた」
「じゃあ課題とは関係ないって事かな。でもそう見せかけて実は課題の重要な手がかりなのかもしれないし、もしかしたら……」
「悩んでいるより行動だ」三郎が遮った。「とりあえず、話を聞いてみよう」
 三郎が荷物を開くと、そこにはみっしりと変装道具が詰められている。
「時間稼ごうか」
「頼む。すぐだから」
 雷蔵が物影から飛び出した。

十六
「あっ」
 雷蔵は顔を見せぬようにして走り出した。侍が小さく声を上げて、再び追いかけ始める。もちろん、雷蔵はどれだけ走っても捕まりはしないし、だからといってまた完全に捲いてしまうこともしない。
 即かず離れずして町内をぐるっと一週して、再び三郎と別れた場所に戻ってきた。
 そろそろもういいだろう、と思って足を緩める。わざと息を切らしたフリをして立ち止まると、侍の方は勢い余ったという感じで突っ込んできた。
 と、そこに女が一人間に割って入って来る。
「きゃぁ!」
「なに!」
 侍は慌てて止まろうとしたが、勢いを殺しきれない。どん、とぶつかった二人は、互いにしりもちをついた。
「こぅら、前をよく見んと――」
 男が思わず声を止めたのは、女の容貌がちょっと普通でなかったからだ。女は、美しかった。
 彼の変装の腕は確かだった。元の面影など微塵もない――そもそも、彼の素顔を見た事のある人間は殆どいないが。
「あのう、申し訳ございません」
 多少くぐもった声だが、そこがまた奥ゆかしい。殆ど肌を出さない着物を選択したのも、鉢屋三郎の抜け目の無さだろう。
 肌は真っ白で、だが病的な不気味さはない。僅かに開いた口元から覘く漆のように見事な漆黒の歯が、高貴な身分を思わせる。だが実のところ、今の間に本物のお歯黒染めなど出来るわけもなく、松脂に墨を混ぜただけのまがい物なのだが。
 しかし侍はしっかりと騙されてしまった。
「いや、こちらがちょっと不注意だったもので……」
 しどろもどろである。
 三郎が震える手で――もちろん計算尽くの動きで――落とした荷物を拾い上げようとすると、侍は慌てて立ち上がり、自分が代わりに荷物を持ち上げた。
「まあ」
「いいえ、このぐらいはいいのです」
 そしてそれどころか、立ち上がれない振りをしている三郎へ片手を差し出した。三郎はちょっと遠慮する素振りを見せてから、その手を取った。
 三郎が立ち上がった時には、既に雷蔵の姿はなかったが、男はその事に気がついた風もなかった。
「後は上手くやる」と、三郎は死角へと消えた雷蔵へ呟いた。

十七
 適当な茶店で茶と団子を奢らせ、店先でしばらく話を聞いた。
 話を聞けば聞くほど、課題との関連性を感じる。聞ける事は全て聞いておいた方がいいだろう、と長々と話に付き合った。
 だが面倒な事にこの男、時折色目を使わないと、反応の無さにしょんぼりとして「ではこれで」と言って話を切り上げようとするのだ。どうも見た目よりも気の小さいたちらしい。
 そのため三郎は「大変でしたのねえ」と労るような言葉をかけたり、「まあ、すごい」とおだててみたりするのを、話の折々にちょうどいい具合を狙って挟まなければいけなかった。これ自体はちょっとした辛抱があれば大した仕事でもないのだが、内心焦りが募っていただけに焦れったい。
 男の話では、既に四年はこの男からの情報を得ているというではないか。男が言う、三人の小僧とは間違いなく彼らだろう。
 そうなると、もう五年二人は出遅れたことになる。
「で、今この街に盗人がいるという情報を得たのです」
「盗賊が、この街にいるのですか。その、何人もの侍を素手で倒したという……」
 化けた女は口に出すのも恐ろしい、という素振りで言葉を濁した。
「いやはや、怖がらせてしまいましたかな」
 男が言う盗賊とは、兵助で間違いないだろうから、本心では恐ろしくも何ともない。顔を見られたという失態を犯したのも、彼らしいといえばらしいし、第一抜刀した相手に素手でまともに立ち向かえるといったら、五年い組では――ともすると、忍術学園生徒内では――兵助ぐらいのものだろう。それを考えると友人として多少誇らしい気持ちもあるし、そういう男に対して後で失敗を指摘してからかってやろうと、人の悪い考えも浮かんだ。
「なあに、こちらは顔を見ている。すぐに見つけて、成敗いたしますよ。こう見えても、紀南奥山流免許皆伝でしてな」
 それにしても素手で伸された、と自分が言ったばかりなのにまあ、よく言うものだ。得てして男というのは女の前では見栄を張りやすいのだが、この男の場合根拠のない見栄であるというわけでも無さそうだ。さあ我が勇姿を見よ、とばかりに立ち上がって、一瞬のうちに抜刀したかと思うと、店の前に生えていた木が中程よりすっぱりと両断されていた。刀の銀の線だけが目に残った。
 こいつは面倒だ。兵助を探しているのなら、恐らく味方になる事もないだろうし――。
「みごとですわ。お座りなさって下さい、よいものを見せて頂いたお礼です」
 三郎は新しい茶を店主より受け取った。


十八
 侍は多少上気した顔で、三郎から茶碗を受け取り、熱い茶をぐいと一気に飲み干した。
「うむ、美人に勧められた茶はうまい。お金はこちらがお出ししますよ」
「いいのですよ。だって、ついさっきわたくしが奢って頂いたのですもの。お茶の一杯ぐらい、お返しさせて下さいな」
「いやあ、かなわんですなあ」
「それに今の剣、女の目では当てにならないと思われますでしょうけど、何て素晴らしいんでしょ。それで私、お願いしたい事ができたのです。もしよろしければ、ですけれど」
「何でしょう」
「帰り道の護衛、お願い頂けません?」
 目の前で科を作っているのが男だと知っていれば、言っている事の不自然さに気がついただろうが。
「ええ、ええ! 勿論ですとも」
 男は鼻息荒くして返答した。

 茶店を立った三郎は人気のない路地の方へ、足早に――そうしないと、街中で連れの男が昏倒するという面倒に巻き込まれてしまうため――向かった。
「用事を思い出してしまいました」と急ぎ足の理由を付ける事も忘れない。
「それはまた、残念」
 何が残念なのだか、やはり根は気の弱い侍は悲しげに眉を八の字に曲げた。
 その時だ。男は膝をガクッと曲げ、地面へ崩れ落ちた。
「どうかなさいました?」
「いや、どうにも。軽い、めまいが」
 答えながらも男は目を白黒させた。ふらふらと頼り無げな様子で立ち上がる。また数歩歩くが、意識が朦朧としてきたらしくついには立ち止まってしまった。半歩ほど後ろを歩いていた三郎が、茶に仕込んだ薬の効果を確かめる為に正面へ回り込んだ。
「まさか」一瞬、男は意識を覚醒させた。
 三郎は微かに笑って男の顔を覗き込む。戯れに、自らの変装を少し弄っていた。
「貴様、謀りおったな」
 目の回りだけ、兵助の様相へ据え変えていたのだ。盗人の顔だ。侍は意識を奮い立てて目を開き続けようとしたが、薬の眠気に勝てない。
 日陰の道へ、倒れ込んだ。

十九
 二畳ほどの広さしかない店舗で、店主の男が二人の客に対応していた。いかにも男臭い無精髭の店主は、底辺の人間らしい壮絶な人生の垢を身体にまとわりつけ、その上であらゆる問題を自分一人で解決してきたらしい力強さをかいま見せている。伏せ目がちの顔つきは、思慮深い思考を連想させた。ただの物売りにしては、隙のない男だ。
 客の一人が何やら激しい口調で、店主へ怒鳴り散らした。兵助のいる場所からは何を言っているのか判らない。身振り、表情、口の動きも、単純に見せかけつつ複雑怪奇で解読が困難だ。兵助はこういう場合あっさりと問題を諦めて、より簡単に解決出来る方法を選択するたちだった。
 薄汚い店の周りは昼間っから人気がない。静かに裏手へ回った。
「しらばっくれるのもいい加減にせぇ!」
「何度も言うがぁ……勘違いじゃあ、ないかね」
 店主は低く押しつぶしたような声色だった。ひ、ひぃと気持ちの悪い笑いを続ける。
「お主、気味が悪いな」
 もう一人の客が静かに言い、何の前触れもなく腰の刀を抜いた。その瞬間、兵助の頭の中でぴんと何かひらめいた。そうだ、あの連中も見覚えがある。記憶に正しければ、二人とも昨晩対峙したばかりの沖見城の隠密だ。
 客の一人が刀を抜いたとき、店主は少しも臆しなかった。真横に置いた商品の一つ、一枚の下駄を手に取る。
 頭上から勢い付いた刀が降ってくるのを、下駄の足を引っかけて横にするりと捻った。
 刀を振るった方の男は驚きに目を見開いたが、それもほんの一瞬だった。
「そのわざ、ただの道具屋の主人とは、やなり思えぬ」
 数歩下がって、間を取り再び刀を構えた。この男は、闇を飲んだような冷たい物見をする。
 一筋縄でいく相手ではない。そう感じた潮江文次郎は、道具の山に片手をかけた。

二十
 もう一人の客が死角より斬りかかってきた。店先で怒鳴り散らしてた方だ。突然静かになっていたのですっかり失念しており、文次郎は一瞬虚を付かれる形となった。寸での所で店先から飛び出してかわすが、そのまま流れるような追撃が来る。
 だが男が見積もったよりも文次郎の足は速い。伸びの弱い切っ先が背後を掠めた。文次郎は振り向きざまに、手にした直径五寸ほどの土鍋を、空振りの始末を付けかねている男の顔目掛けて投げつけた。
 バリン、と瞬間に突き刺さるような音が響き、土鍋は男の鼻とともに粉々に砕けた。男は顔を押さえて蹲る。
 だがもう一人だ。静かに刀を構えたまま、事の成り行きを見守っている。間合い三間ほど。男の手から伸びるのは、味気ない安物の唾と鞘に似付かわしくない、曇り無き業物の刀だ。
 対する文次郎は、丸腰だった。一介の古道具屋の店主が帯刀しているわけにはいかないのである。
 文次郎は伏せていた目を持ち上げ、相手の顔をまともに見た。
 何の印象も湧かない顔だ。どちらかというと色白で、今の文次郎の風体と対照的に、全体的にこざっぱりとしている。人に紛れたり変装したりといった術を得意とするのだろう。だがそれ以上に、剣の腕は優れているらしい。
 互いにじっと見つめ合ったまま動かない。両者とも呼吸が凪いでいる。
 文次郎は懐に手を入れているが、あの薄っぺらい麻の布地の裏に、相手に勝るほどの武器を隠しているようには到底思えない。そろそろ助太刀に行った方がいいのだろうか。兵助が思い始めたその時、
 パン!
 弾けるような音がして、男のこめかみに石が当たった。


二十一
「ふぎゃーっ」
 白い塊が咆えた。飛んできたのは石ではなく、身体を丸めた小さな灰猫だった。鋭い爪で顔をひっかき、地面に飛び降りる。
 猫は足が速い。男が振り返った時には、遙か遠くへ飛ぶように走り去っていた。
 その視線を逸らした瞬間に、
 ごーん。
 と派手な音を鳴らして、文次郎の拳が後頭部へ炸裂した。
「真剣勝負中によそ見するもんじゃないな」
 言いながら、もう一発背中へ叩き込んだ。呼吸が止まるような強烈な一撃だ。
 あえなく、男は倒れた。
「おい、見ているなら手伝え」
 文次郎が視線を向けもせずにそう言ったので、兵助はぎょっとした。裏に隠れているのが見つかっているとは思っても見なかったのである。
 すごすごと物影から身をさらすと、見窄らしい風体の町人に化けた一つ上の先輩が、不機嫌そうに手招きした。
「責任を取って片づけろ」倒れた二人組を指さして、言うのである。
「責任って、先輩が殴り倒したんじゃないですか」
「しらばっくれるな」
 文次郎の眼光を誤魔化す事は不可能だと悟って、兵助は面倒そうに頷いた。
「縛って店の奥だ。逃がすなよ。いや、逃がしても良いが、その時は俺はもう知らん」
「はい」
 店の奥に半地下の小部屋が作られていた。外装からは予想も付かないような頑丈な作りだ。忍術学園が密かにこの街で管理している建物なのである。ここを使っているという事はつまり、こういう事になるのは最初から予測されていたのだろう。二人を担いで降りてきた兵助は、今回の課題が自分たちの失敗から発展しているのだという事を確信した。

二十二
 兵助が上の階へ戻ると、かの灰猫が店の周囲を徘徊していた。用心深い足取りである。
「アー」と文次郎が獣のような声を出すと、ピンと耳を跳ねて振り向いた。じろりと睨み付けるような視線に、兵助はたじろいだ。その灰猫に魔性を感じたのは、ギラリと光る緑色の眼球のためのみではない。口の周りが血を吸ったように真っ赤だったのだ。
「猫が返り血を浴びている」思わず呟いた。
「違う。見ていなかったのか、こいつは爪しか使っていない」
 文次郎が猫に向かって手を伸ばす。嬉しそうに駆け寄ってきた灰猫は、確かに爪の先に黒く滲んだ血痕を従えていた。
「胡頽子の実だ。こいつ、怪しからん悪食でな。好物なんだよ、食わせんとよく働かない」
 文次郎は猫を膝に載せると、首に捲いた紐から手紙を抜き取った。「敵既に現れたり用心すべし」である。
「報せが遅い」憤り握りつぶした。
「やはり、沖見の追っ手ですか」
「思いの外早かった。てめえ、印でも残しながら帰ってきたんじゃないだろうな」
 そう言われても、思い当たる節はない。一応追っ手は全て捲いた筈なのだ。無実だと言いたかったが、文次郎がじろりと睨み付けるので、気圧されて数歩後じさった。
 何歩目かで、背後に気配を感じる。
「後輩を苛めるなよ」
 ちょうどいい具合に現れたのは、善法寺伊作だった。
「仙蔵といい、い組では後輩を苛めるのが流行ってるのか?」
「莫迦な事を言うな。俺が言ってるのは言いがかりでも何でもないだろうが」
「そうだとしてもね、言い方ってものがあるよ」

二十三
「怪我は大丈夫なのかい」
「怪我ぁ? 昨日の実習のか。ああ、なるほどな」眼球だけを動かして、兵助の頭から足の先までをじろりと見て一人言ちた。「道中、よほど余裕が無かったか。仮にも忍者たるもの、情けないと思わんか」
「何があったのか聞きもせずに言うなよ」
「保健委員ならだいたい判ってんだろう。それよりこんな所で油売ってていいのか? 血が溢れるぐらいの怪我をして、無頓着としか思えん」
「え?」
 まさか会話が自分に向いているとは思っていなかったため、兵助は背後から冷や水をかけられたかのような声を上げた。
「ああ、そうだよ。あんまり遅いからさ、迎えに来たんだ」
「おれをですか? 別にそんなに、怪我は酷くありませんでしたから、もう治療も終わったと思って……」
 自分の身体を目で見て確認する。文次郎の言うように、血の滴っている部分はないし、目立った治療の跡も無いはずだ――確かに昨晩なら血を滴らせていたのだが。
 しかし新野先生の治療は完璧だったし、私服も傷周りを隠す物を選んだ。そのため、自身の傷は視界に入らなかった。
「二晩ほど寝てないだろう。無理をせずに安静にしておいてくれよ、じゃなきゃこっちの仕事も増えるんだから。本当は食堂に行かせるのも嫌だったんだから」
 言われてみると、そういえばあまり良い状態ではない。自分自身の事なのだが、数日間の寝ずに働いていた為の妙な興奮状態にあったために、疲労や痛みを何となく忘れていた。
「しかし、足跡を残してくるとは相当莫迦をやったな。顔も見られたという話だが」
「言い訳させてもらえます? 誰か囮にならなきゃいけない状況だったんです」
「その状況に至るのが、未熟の証拠だ」
「もう止めなって。さあ、兵助は倒れる前に帰るんだ。一体何をしていたんだ?」
「ちょっと」と言葉を濁して、何をしていたんだ? と頭の中で反芻した。
 そうだ、一体何をしていたんだろう? 追っ手に見つかって、四年生を見失って、何で四年生を探していたのかというと、立花先輩に言いつけられた仕事をやろうとして、その前は雷蔵と三郎に会った。三郎! 急須の事を調べていたのだ!
「潮江先輩、店はいつ頃から出していたんですか」
「何だ急に」
「後輩が持ち物を盗まれたと言っていて」そろそろ疲れを思い出してきたので、細かい説明は省略した。「その持ち物はこの店で買ったと言っていたんです。手がかりがあるかと思って」


二十四
 三郎が振り返ると、既にそこには雷蔵がいたので、「大成功だ」とばかりににやりと笑って見せた。それからはっと思い出して、口元を袖で隠す。
「それ、まるでほんとに慎み深いご婦人のようだよ」
「見えなかったか? そろそろお歯黒の色が落ち始めてるんだ。早く口を濯ぎたい」
「松脂のってそんなに早く落ちたっけ」
「飲み食いしたからなぁ。ちょっと、河原に行ってくる。雷蔵はこの男の始末をつけてくれないか。いや、その前に」
 男に持たせていた荷物を広い、紐を解いた。中身は変装用の諸々の道具だ。
「顔を写そう」
「僕に?」雷蔵は驚いて、元々丸い目を一瞬丸くした。「三郎がやればいいじゃないか。変装なら、そっちのほうが上手くいくよ」
「あれを見ろ」
 三郎が指さした先に、ふらふらと歩く三人の後輩の姿があった。三人は川を渡す橋を目指している。
 町の背後(或いは入り口)に位置するその川は昭見川、或いは昭見沼という。周囲は底なし沼がまばらに発生している事から、川でありながら沼の名も持っている。梅雨頃になると底なし沼は拡大し、そして水かさの減る時期になると沼は減る。水かさの減るのは秋である。従って、昭見という名は秋見の鈍ったもので、秋になれば川が岸から見える、という意味なのである。
 季節に変動する地形のため、その川岸はあまり発達していない。町の外れだ。だが橋は梅雨に増える水かさを見越して、川の大きさに比べれば随分大仰なものだった。
 その橋の袂に、薄汚い小屋が建っていた。袂にあるとは言っても、そのような理由から、川からは随分離れた所である。人気がない場所なだけに、何故そんなところに小屋――見たところ古道具屋だ――が建っているのか、ちょっと考えると不自然さに気付く。
「三人は四年だ」
「うん。あとよく見えないけど、善法寺先輩と兵助がいる気がする。店主も誰かかな?」
「そう考えておこう。今すぐ四年を足止めだ。店の方は僕が対処する」
「そういう事なら」
 三郎の慣れた手つきは、あっという間に雷蔵の姿を地面で伸びる泥だらけの侍の生き写しへ変えてしまった。


二十五
 さてそれでは、と雷蔵が作戦に出て行った。三郎も小走りで河原に向かう。いまだに女物の着物なので、寧ろその動作の方が相応しく見えた。恐らく茂みの中で元の姿に戻るつもりなのだろう。自分も素早く行動に戻れるようにと、顔を隠しつつ河原の葦の茂みへ身を隠そうとした。そういう風に、立花仙蔵は考えていた。
 その三郎は、茂みに入る際にちょっと振り向いて、家の屋根に座っていた仙蔵を見た。目が合う。
 感づかれているとは思っていなかったため、仙蔵は少々面食らった。だが、これは面白くなった、とも思った。
「本当は、お前達の味方といってもほぼ手出し無用なのだが」
 仙蔵は自分も茂みに潜り膝を曲げて小さくなった。そして、密談らしく小声で笑う。正面に屈んでいる三郎は、あっという間に元の姿に戻っている。考えれば、変装名人で鳴らしている鉢屋三郎が、わざわざ水場まで戻らなくては変装を解く事が出来ない、なんてことが有るはずがないのである。
「どこまで、駄目なんですか? 僕たちの方は詳しい条件を知らされていないので」
「実戦に沿った課題なのだから、当然だろう。実際の行動に箇条書きで明文された条件などあるはずがないからな。だがその代わり、実戦と同じくどんな手でも使える。担当教師はそう言っていただろう」
「言ったような言わなかったような表現です。そういうのだと、雷蔵は悩み出すから」ちょっと視線を上に向けて、三郎は雷蔵の姿を遠くに確認した。「その他は優秀だし、良いやつなんですけど、向いてないなぁ。いや、それは今はいい。先輩方は何が出来ないんですか?」
「一つだけだ。味方だとばれるような行為を、こちらから仕掛けてはいけない」
「じゃあ今の状態は、よくないですね」
「四年にばれなければいいんだよ。それに、接触を試みたのはお前の方からで、こちらから動いたわけでもない」
 それは多少屁理屈だと思ったが、言わないでいた。それを指摘するのは要するに、自分の点を引いてくれと頼むのと同じだったからだ。
「そうなると、先輩方に気付いた方が勝ちってことですね」
「実質はな。だが焦ると足下を掬われるぞ。実際に密書を守り通さない事には、課題の成功とは言えん。多少有利な立場になったとだけ考えろ。だがそもそも沖見の追っ手の事もあって、最初からお前らの方が有利に設定してあるんだが」
「密書って言うのは、ほんとに密書なんですか? 兵助たちが奪ってきたっていう」
「まさか」仙蔵は鼻で笑った。「彼らはちゃんと学園まで密書を持ち帰った。それをまた町まで持ち出してくるなど、そんな危険な事はしない。だが追っ手には本物と思わせる」
「餌ですか。もしかして兵助も?」
「あれは計算外だ。結果的にはそうなったが」本当はそうではなかったが、仙蔵は何も言わなかった。どうせそのうちばれるだろうと思っていたし、ばれるならそのときまで黙っていた方がこの場は上手く進むとも考えた。それに三郎の方へ微少なりとも罪悪感を感じていた。

二十六
「偶然? 何でほうほうの体でわざわざ町へ出て来る必要があったんだか」
「数日寝ていなかったので、頭に血が上っていたんだろう。そんなことを話し合っている場合じゃない。密書の隠し場所を教えて欲しいんじゃないのか」
 三郎は今気付いたとばかりに、ぽんと膝を叩いた。
「そうです。でも大体察しは付いてるんですけどね。あそこ、潮江先輩を見つけました」
 掘っ立て小屋を指さす。
 仙蔵は満足げに笑った。
「さっき遠くから見た様子だと、四年は気付いていないな。やはりお前らのほうが一年分優秀らしい。組んでいるこちらも安心するよ。さて、作戦などは有るのかな?」
「もちろんです」

 古道具屋の裏に近づく影があった。いち早く気がついたのは、伊作である。
「裏手の戸が揺れているよ」
「裏の戸だと?」
 伊作に耳打ちされて、文次郎は立ち上がった。
「店は開けておいていいの?」
「別に、売り物が有るわけでもない」古道具屋のふりをしているだけなのだ。
「そう。じゃ、僕らは帰るよ」
 後ろ手に手を振って別れた。背後に近づいてきたのが敵でないと気付いていたために、別段慌ててはいなかった。一体何事を抱えてきたのか、それは気になったが。
「どうした」一応用心深く壁越し、顔の見えない距離で声を掛けた。
「文次郎? あのさ、あと一人いる」
 文次郎は足を止めた。いや、止めたのではなく、止まったのだ。
 小平太の返答は、呼吸混じりであった。そして、微かに生臭い。
「伊作!」
 まだ声の届く距離だろうか? いやそれよりも文次郎が気をつけるべきだったのは、「あと一人」の方だった。


二十七
 声を聞きとめた伊作は、急に足の向きを変えた。
「ごめん、一人で帰って」
 自分が緊急に呼ばれるのは、誰かが負傷した場合だという事をよく理解している。兵助の方も、文次郎の声色からその事を悟った。
 兵助は何も言わず頷いて、言われたとおり帰路につこうとした。
「あ、ちょっと待って」それを伊作が呼び止める。「顔、隠した方がいいんじゃない? 今の文次郎の声で、もう手遅れかも知れないけど」
「え? 手遅れって」
「あれだけ大声出したら敵も気がつくよね、って話だよ。編み笠が売り物の中にあったと思うから」
 伊作は店先にまず駆けて行き、堆く積まれた古道具の山から比較的新しい編み笠を掴んで兵助へ投げてよこした。それを掴んで兵助は、はたと思う所があった。
 持参した編み笠がない。被っていないし、背負ってもいない。ぼうっとしている間に無くしたのか、いつ失ったのか記憶になかった。さっき侍に襲われた時に落としたのだろうか。しかしその時は、小平太が側にいた。落としたとしたら教えてくれただろう。ではその前か。
「立花先輩か」
「どうかした?」まさか兵助の呟きが聞こえたというわけではなく、編み笠を手に考えに耽った様子を心配して伊作は去り際に声を掛けた。
 しかしそれよりも文次郎の方が気になるらしく、答えを待たずに伊作は店の裏に消えた。
 その時から、兵助は周囲に何者かの視線を感じはじめた。しかしどうにか出来る距離ではないとすぐに判断して、編み笠を深く被って歩き出した。まさか怪我人の手当に向かった伊作を再び呼び止めるわけにもいかない、とも考えた。
 兵助は、小平太の伝言を聞いていない。残る一人の、その視線がの主が、小平太に痛手を負わせたことを知らない。だが視線の力から、そう簡単に――今の疲労した状態で、太刀打ち出来ないだろうという事は判った。
 さてどうしようか、と考えてすぐに解決策を思いついた。


二十八
 滝夜叉丸は道を歩きながら人知れず思考の中で頭を抱えた。解決策が見つからないのである。
「何かあった?」
 喜八郎が異常に気がついて声を掛けるが、
「何でもない」と意地を張って答えてしまう。何でもない筈がないのになあ、と喜八郎は思うのだが、それ以上追求するのも面倒なので、色々言うのは止めた。
「あ、立花先輩だ」
 三木ヱ門が指さした先は、今渡ろうとしていた橋の向こう側の足下だった。編み笠を被った色白の男が河原の岩に座っている。三木ヱ門の声に振り返り、にやと笑って立ち上がった。
「ふん!」滝夜叉丸は、まともに視界に入れずに鼻を鳴らした。それから、立ち止まり三木ヱ門と喜八郎に背を向けた。別に二人に不満を向けているのではなく、仙蔵らしき男を視界から完全に追い出したかったのだ。
「今更気付いたか」
「お前は前から気付いていたというのか」
「ああ、随分前からな」
 成る程それで機嫌が悪くなったのか。喜八郎は思考の辻褄が繋がった事に人知れず感激したが、その事は彼の表情や仕草に何の影響も及ぼさなかった。
「じゃあ、捕まえようか」
「は?」喜八郎の発言に、三木ヱ門が目を点にして聞き返した。
 最上級生の中でも優秀だと言われている、立花仙蔵先輩を捕まえるだって? 思わず何度か口をぱくぱくさせた。
 滝夜叉丸は後ろを向いて、聞いているのか聞いていないのか判らない。数秒間の沈黙。その間、喜八郎の表情が本気なのか冗談なのかまったく判断が付かなかった三木ヱ門は、結局適切な返答が思いつかなかった。
「冗談だよ」
 漸く喜八郎が解答を渡したのは、編み笠の青年が河原から立ち去ろうとした瞬間だった。
「あれ、立花先輩じゃない。誰だろうねえ、他の六年かな。どっちにしても捕まえて話を聞き出せたらいいんだけど」
「別人なのか!?」喜八郎の話を遮って、滝夜叉丸が勢いよく振り向いた。
「反応が遅い。それと、根に持ちすぎ」


二十九
 三木ヱ門が喜八郎の口をふさいだ。言い過ぎだ、と口にはしなかったが眉間に皺を寄せて抗議した。だがその行為が逆に、滝夜叉丸の勘に障る事だった。
「気を遣わなくていい」片方だけ眉を上げた器用な表情で、彼は続けた。「今回は同じ失敗はしない。さあ、行くぞ」
「行くぞって、どこに?」
「捕まえるんだろう」
「あの人を」
 喜八郎が指さした青年は、既に河原の茂みから抜けだし、三人に背を向けて街中へと向かっていた。遠いので細かい点は判らないが、確かに立花仙蔵の容姿をしている。
「冗談だと、綾部が言ったじゃないか」
「だが動かん事には何も出来まい」
 喜八郎は真面目腐った滝夜叉丸の顔を覗き込んで、至近距離で態とらしくため息を付いて見せた。
「この間も試験中に先輩に騙された事を根に持ってるんだろう? それで同じ失敗はしない、って言っておきながらさ」
「何だ」
「僕は別人だって言ったのに、聞いてなかったの?」
「本当に別人か」
「あのね、同じ委員会で親しくして貰ってる先輩だし、殆ど毎日顔合わせてるし、間違いようもないよ。絶対罠だ。あの人なら、そういう罠を――何て言うのかな、偽物を仕立て上げるとかややこしい事好きだもの」
「ちょっと待て」三木ヱ門が二人の間を割った。
「敵役の六年は、自分からは動けないという話じゃなかったか? そもそもおかしいじゃないか、罠を仕掛けるなんて」
 喜八郎と滝夜叉丸は顔を見合わせた。そういえば、と今更思い出したのだ。教師から課題を説明された際、確かにそのような事を言われた。
「では、一体誰なんだ? 誰が敵だと言うんだ」
 敵が誰だと言っているのか、あの偽物の立花仙蔵が誰だと言っているのか、滝夜叉丸の物言いでは判断が付かなかった。


三十
「六年以外に敵がいるのか」
「いたじゃないか、実際。あの間抜けな大男」
 今や三郎と雷蔵によって捕らえられた侍の事である。
「あれは生徒では無かったが。ふむ、確かにありえる話だ」滝夜叉丸は一瞬考えて続けた。「敵役は六年、だけとは言われていないな。あの沖見の男のように、外部が関わっているとも考えられるし、それに」
「あ」滝夜叉丸が話を続けているというのに、喜八郎が突然別な方向を向いた。手を振る。
「久々知先輩」
 編み笠を深く被った青年が橋を越えて歩み寄ってくる。少し草臥れた足取りだった。
「よく判ったな」
「普通、判らない?」
 否定的に肩を竦める三木ヱ門の様子の方が、喜八郎には理解しがたいようだった。
 やがて近づいてきた兵助は編み笠の下から、
「綾部か。ご苦労様」顔を見せずに言った。
「何がですか?」
「授業の事だ。色々制限があって大変だという話だから」自分の失敗が元になっていると思い返し、尚更その思いを強めた。
「別にそう、大変でもありませんよ。ねえ、滝夜叉丸」
「え? うむ、勿論、強化実技とも学年一の成績を誇るこの滝夜叉丸にとってはこの程度の課題など朝飯」
「前という話だが、長く続くのかな」
「放っておけば、多分そうなります。お急ぎですか? 三木ヱ門を嗾けましょうか?」
「おい綾部、どういう意味だ」
「そうすると余計長引くだけなんですけどね。先輩はこれからどちらへ?」
「帰るところだよ。収穫も無かったし」
「それは残念です」
「何の話だ?」
「三木ヱ門には特に関係ないけど、急須の話だよ」
「急須?」
 余計訳がわからない、という顔をして滝夜叉丸と殆ど同じ動作で兵助と喜八郎の顔を見比べた。
「おれは綾部にそうだと言ったっけ」兵助の方も不思議そうな顔をした。
 兵助は昼休みが終わった直後、授業が無いと知って暇つぶしの気分で――或いは疲れによる浮ついた気分で――何となく一人町に出ただけだった。確かにその前に、喜八郎と急須の話をしていたのではあるが。
「そうだといいなあ、と思って希望的観測だけで会話をしてみました」
「そうか。気をつけろよ。あ、いや何でもない」
「何でもないということは無いでしょう」
「いや本当に何でもないんだ。おれの方の問題だから」
 そう言ったのは、心配させまいという考慮などではなく、この課題に関わっていない兵助が口出しするのを固く禁じられていたからだった。どこで審査の者が見ていると知れないのだし。
 兵助は疲れた頭をたたき起こして、周囲の空気を読んだ。一人は静かに舞い落ちる木の葉程度の気配だけをどこか見えぬ場所に置き、兵助の動向を見つめている。
 ここで話し込んでいては巻き込む可能性もある。そうなると、武器を持っていない後輩達の身に危険が及ぶだろう。万全な状態ではない兵助には、庇い通す――しかも審査の六年の目を盗みながら、そんな事をやってのける自信は全くなかった。
「じゃあ、急ぐんで。邪魔をしても悪いし」
 人物が自分に付いてくるのを感じながら、兵助は不自然なほど足早に彼らと別れた。


三十一
 よし。不破雷蔵は気合いを入れて立ち上がった。横で立花仙蔵の顔をした鉢屋三郎が笑った。
「抜かるなよ」と励ましておいて、三郎は早足で去っていく兵助を見やった。
「ありゃ、突然慌てて何だろうね。腹でも痛くなったのかな。まあちょうど良い頃合まで時間を稼いでくれたんだから、もうこれ以上文句は言わないが」
 お前の尻ぬぐいをしているんだぞ、と小声でからから笑う内心に付け加えた。
 雷蔵はかの侍の姿である。兵助は恐らく顔を覚えているだろう。だから兵助が店より出てきたのを見て、慌てて隠れたのだった。仙蔵との作戦会議を終えた三郎も同じくした。
 作戦も整い、あとは実行するだけとなっているのに、三郎は皮肉を言いたがる程度には機嫌が悪い。先程後輩をからかってやろうと、敵役の仙蔵の変装をしてこれ見よがしに怪しい行動を取って見せたのに、反応が悪かったからだ。しかもさらに兵助が邪魔をした形になった。この程度で機嫌が悪くなるのも大人げない話だが、人を驚かせるのに手間暇掛けたがる性分なのだから仕方がない。
 その性質のために足下を掬われた事も無いではないのだが。
 雷蔵は街道の影から何気ない素振りで出て行くと、遥か先で話し込む三人の少年に向かって大声を上げた。
「おーい、見つかったかぁ」
 三人がいっぺんに振り向いた。それから喜八郎だけが手を振って答えた。両者駆け寄っていき、何事か言葉を交わす。滝夜叉丸と三木ヱ門も加わり、情報を交換し合っているのだろう。侍の話によると、あの三人が協力を申し出たという事だった。つまり五年二人は後輩に先を越された事になるのだが、しかし今度はそれを利用する事が出来る。
 雷蔵扮する侍と後輩の会話の様子を見るに、疑われてはいないようだ。これなら、上手くいくだろう。三郎は自分の仕事に取りかかる事にした。


三十二
 潮江文次郎のいた古道具屋から十町ほど離れた、山を背にした町はずれの木の上に二人は待機している。店の様子が見えないか見えないかぐらいの位置取りだ。
 鉢屋三郎と不破雷蔵ならばうまくやってのけるだろう、この課題は五年の勝ちで決まりだ。立花仙蔵は何故か得意気に、自分と同じく審査と警備をしていた中在家長次へ報告していた。
 仙蔵がそう得意気になるのは、何となく意地があったからだ。どこか天の邪鬼な質のある彼は、平滝夜叉丸と綾部喜八郎の二人に対してちょっとした負い目があったために、敵対の五年生の方に少しばかり肩入れしていた。一応五年生とは味方という設定でもあるわけだし。
 だがそうした公正ではない同級生の態度を、長次は目線だけで咎めた。本当は何か口元で呟いていたのだが、聞こえる事を期待していなかったのだろう。呟きは宙に消えたが、両者とも気に止めなかった。
「長次こそ、あいつらを見張らなくていいのか」
 四年生三人の事である。長次は彼らの審査兼護衛をしていたのだが、彼が呟くには「文次郎と小平太がそばにいる。あまり固まって行動すると気付かれる恐れがあるし、邪魔になるかもしれない。何より、小平太から伝言を預かっている」
 大体そんな内容を聞こえるか聞こえないか位の落ち着き払った様子で言った。
「伝言とは何だ?」
「……敵が」
 木の葉の間から長次が指さしたのは、街道を駆ける久々知兵助の姿だった。そのかなり高い樹木の上から町を見下ろすと、容赦ない陽光のために精巧な模型のように見える。その上を走る兵助の姿は、まるで楊枝に刺した小さな人形だ。時折周囲をきょろきょろと見回している。
 やがて怪我人にしては恐るべき早さで街道の行き止まりまで駆け抜けると、ため息を付いて座り込んだ。
 街道の終点はこの大きな樹木だった。
「どうした、慌てて」
 突如頭上から降ってきた声に、兵助は虚を付かれて飛び上がった。
「鬼でも見たような反応だな」
「立花先輩、中在家先輩」目を丸くして呟いた。
「どうした……何か」
「先輩方を探していたんです。課題の事で」
 そこまで言って、兵助は口を閉じた。再び焦って周囲を見回すと、
「怪しい人物を見ませんでしたか?」早口に訊ねた。

三十三
 息を呑んだ。飛び降りてきた仙蔵が見た目以上の腕力で兵助の頭を押さえつけて、地面に叩き付けたからだ。落下に追いつかない編み笠が跡を追って少し落ちた。かと思うと、次の瞬間には兵助の後方へ吹き飛ばされていた。黒い鉄片が突き刺さっている。
 頭上で何度か風を切る音。ぶうん、と虫の羽音にも似ている。
「……起きろ!」
 仙蔵の合図で兵助は飛び起きた。樹木に背中をぶつける。三人。
 内一人は直ぐに血を吐いて倒れた。切り込もうと駆けてきたところを長次が狙った。胸に紐を結わえた棒手裏剣が突き刺さっている。
 横から一人! 近くにいた仙蔵が駆けて腰の忍刀を抜いた。
 あと一人。どこだ? さっき一瞬感じた気配がない。
 兵助は目を閉じた。
 右、前、移動する刃を打ち付ける音。
 頭上で再び虫の羽音。縄と鉄が振れて極弱い風が捲いている。
 あと一つ。兵助は地面を蹴った。目を瞑ったまま走る。耳の横で切っ先の冷たい風が鳴った。仙蔵の刀だ。
 その瞬間目を開く。
 勢いの間逆に地面を蹴った。
 ゆるい速度で仙蔵と僅かに見知った忍者の間合いに飛び込む。横殴りに二つの刀を弾き飛ばすと、敵に動揺が走った。
 だが仙蔵は容赦なく冷静だ。飛ばされた刀を追って自身も横に飛び、空中で掴むとそのまま上に向かって投げ飛ばした。
「ぎゃっ」と叫び声と肉に刺さる音。次いでガサガサと葉の揺れる音と共に人間が落ちてきた。
 一人ではない。影に隠れて長次も飛んでいた。
 その下に刀を失ったあと一人。間合いを取ろうと飛び退いた所を兵助が追い、回し蹴りを食らわせた。吹き飛んだ男の胴はちょうど良い案配に、落下する長次の真下に位置していた。
 避ける暇はない。肺を潰されて男は悶絶した。
「こいつらか。怪しすぎるほどに怪しいな」
 仙蔵が全身の埃を払いながら言った。彼の言うとおり、この三人は暗色の忍び装束を纏いった町中にそぐわない異常な風体だった。


三十四
 長次が手早く縛り上げる間、兵助は側に座り込んで俯いていた。流石に息が上がり、肩を揺らしている。
「…帰らない……のか」
「え?」自分の呼吸の音で聞こえなかった。
「もうこちらは気にせずに、帰った方がいい」仙蔵が代弁した。「随分疲れているようじゃないか。伊作に聞いたが、怪我も酷いのだろう?」
「怪我って、やっぱり知ってて巻き込んだんですか」
 思わず顔を引きつらせて言った。
「何の話だ?」
「とぼけないで下さい。さっき引き留めたのは先輩じゃないですか」
「引き留めた? ああ、なるほど、そっちか」
「そっちって」ばれないようにため息を付いた。ばれたかもしれない。どっちにしても別に構わない。すでにこの先輩の一寸した悪巧みのしっぽは掴んだ。だからといって何をするわけでもないのだが――。
「兵助」
 長次が呼び、兵助は顔を上げた。まだ息は乱れているが、とりあえず敵の確認をしなければならない。沖見の追っ手であるのかどうか判るのは兵助だけなのだ。
 縛り上げられた三人の忍は間違いなく昨晩に顔を合わせた相手だった。装束からしても間違いない。
 いや、
「違う」
 じっと三人を睨んでいた兵助が俄に叫んだ。
「何だ? 追っ手ではないというのか」
「いや、違う!」
 再び叫んだかと思うと、突如立ち上がった。そのまま間をおかず、地面を強く蹴る。二人の先輩の顔も見ず、何も告げず駆け出した。
 今し方走ってきたばかりの街道を逆方向に、落とした編み笠も放ったまま。疲れを忘れたように、まるで荒くれの強風だ。来た時よりも速度が上がっているようにも思える。すぐにその背中は豆粒のようになった。
 声を掛ける間もなかった。残された二人は一瞬呆気にとられた。
「何なんだ」
「……追う…か」
 だがこちらの始末が先だ、と長次は目だけで言った。

三十五
「一人にぼろ負けか」
「違うって……いた!」
 薬の痛みが堪えた。伊作が苦い笑い方をする。「騒ぐな、表に四年も五年も来てる」
「何ぃ、それを早く言え」
「そのぐらい自分で判断して下さい。僕は小平太について残るけど」
「俺は一人で充分だ」
 言い切った文次郎の姿に、伊作は肩を竦めて返した。
 文次郎が店の表に出て行くと、奇妙な四人連れが橋を越え、丁度こちらに向かってきている所だった。
 逞しい侍が一人、華奢な若者が三人。言うまでもなく雷蔵と滝夜叉丸、喜八郎、三木ヱ門である。ただし雷蔵は沖見の追っ手に変装している。
 中々上手いな、と文次郎は独り言ちた。雷蔵は何やら得意気に喋っている。それを四年の三人組が感服した様子で何度も頷いていた。時折滝夜叉丸などがニヤリと笑うが、どうもそれも滑稽に見えた。五年の生徒の方が一枚上手を行っているのが明らかに感じられるからだろうか。
「五年の勝ちで決まりです」
「ふむ。何故だ?」
「これをお願いします」
 頭上からぽとりと何か落ちてきた。関心のないふりをして、文次郎は暫く動かなかった。その間浅く考え込んだ。
 一人逃がしたらしい。長次が殆どを引き受けたらしい。いや、長次と追っ手を分担し、小平太が担当した者の内一人を逃がした。長次の引き受けた追っ手はどうなったかは判らない。今、視線の先で雷蔵は単独で行動している。さっき頭上から語りかけてきた三郎も、明らかに仙蔵と一緒ではなかった。という事は、長次の方には仙蔵が回っていると考えていいだろう。
 それとその小平太の逃がした一人は兵助の顔を知っている。恐らく兵助を追っていった。だがそれにしては、今どこかからこの店を監視している目がある。兵助はどうなった?
 俯いたまま周囲に神経を配った。確かに一人。三郎の落とした、そして文次郎が取り落とした文に強い関心を向けいている。間違いなく沖見の追っ手だ。彼らを四年と共に欺かなくてはならない。
 三郎が落とした文に目をやった。真っ白な真ん丸い石のように固められている。
「おーい」
 店の周りをうろついていた灰猫を呼んだ。抱き上げるふりをして、文も拾い上げた。
「腹が減ったか? 店番を代わってくれるなら、乾物でも持ってこよう」
 猫はにゃあと鳴いて答えた。


三十六
 田村三木ヱ門、一人だけ輪から外れていた。盛り上がっている三人を遠巻きに見ていて、これで良いのだろうか?と首をかしげた。
 このままとんとんと話が進めば、課題は上手くいくだろうと思えた。情報を集めたり、町人を罠に掛けたり、あの侍に嘘をついたり色々な努力を重ねた結果、どうやら遂に密書が手に入りそうだ。
「盗人の仲間を遂に見つけた。密書の在処が判ったぞ」と男は言いに来たのだが、何でそれを自分たちに言うのだろう? 軽い不信感はあった。
 綾部喜八郎がその事を訊ねると、男は「手伝って貰った手前」と義理堅い事を言った。そういえば命も救ってやったし、と平滝夜叉丸が恩着せがましく言うと、失態に頬を染めて異常に恐縮して何度か礼を述べた。
 何と単純な男だろう、と三人は内心にやりとした。騙しやすそうに見えたのだ。
 実際は単に変装した雷蔵がその事を知らなかったために、焦って取り繕っただけだったのだが。
 ともかく、あとは男が手にした密書を上手く掠め取るだけである。単純そうな相手だ、簡単に思えた。
 そこまではいい。でも一つ問題がある。
 課題の成功は誰の手柄になるのか。
「下らない」と喜八郎は言うだろう。
 しかし自尊心の強い三木ヱ門にとってそれは重大な問題だった。恐らく、同じように強い自惚れのある滝夜叉丸も似たような考えだ。
 あいつに先を越されたくない、そうも思うが、そういえばあれは機嫌が悪かったのだと思い出した。慰めようではないか、と出る時に喜八郎と話し合った。
 となると手柄を滝夜叉丸の方に持って行かなくてはいけないのかもしれない。
 だがそれはどうしても納得がいかない。
「あの店だ」男が指さした。ちょうど、店主が奧から出てくるところだった。
「見るからに怪しい男ですね」
「皮肉か?」
「いや別に。盗人の変装だとしたら、怪しいに決まってるだろうからそう言ってみた。何で三木ヱ門が怒るの?」
「別に、怒ってはいない。悩んでいた」
 そうは言いつつ、実はほんの少し腹を立てていたかもしれない。近くで見ると、店主が一体誰なのか判ったからだ。
「あれ、六年じゃないか?」
「潮江先輩だ」
 三木ヱ門が答えると、滝夜叉丸は感心したように頷いた。
「間違いないな」
「何の話をしておる?」
 小声で話していたというのに、聞き止められて三木ヱ門と滝夜叉丸はぎょっとして縮上がった。すかさず、
「いいえ、何でもありませんよ。彼らは何でも満足げに事を運びたがるんです」
 と喜八郎が誤魔化したが、言い分が二人の勘に障った。
「意味が判らん」
「どういう意味だ」

三十七
 さらに喜八郎は逆撫でるように鼻で笑った。自尊心の強い二人は当然、頭のてっぺんまでかっと血が上ったのだが、喜八郎はあえてその状態で放って置いた。
「さあ、とりあえず行きましょう。盗人の仲間がいるとしたら、僕たちが引き受けますので」
「いや君たちのように若い者に任せられるような相手では」
「沼に落としたのは僕です。何とか出来ますよ」
「そうか……いや……」
「あ、丁度店主が奧に引っ込みました」
 喜八郎は口々に文句を垂れている滝夜叉丸と三木ヱ門の肩を同時にぽん、と叩いて、
「あと一仕事」
 と言った。
 喜八郎が言うとおり、店主は再び奧に戻っている。表で灰猫が干し魚を食らっていた。
 侍、つまり雷蔵はその猫を見てまたしばし悩んだが、「まあいいか」と突然吹っ切れて歩き出した。
 四人が近づくと、猫は顔を上げた。店の売り物に手を出す四人組をじっと見つめていた。鳴きもせず、全く微動だにせずに一挙一動を見張っている。何となく気味が悪い。その猫の様子に気がついたのは、三木ヱ門と雷蔵だけだった。
 雷蔵の方はしらばっくれて全く存在を無視していたが、三木ヱ門はこいつが一体何をしているのかと不安になり、またも輪から外れて一人で猫を観察していた。いや、目が離せなかった。
 猫の方も、ずっとこちらを見つめていた。彼は目が離せないのではなく、目を離さないでいたのだった。
 他の三人が密書を探していざこざやっている間も、彼は微動だにせずに見張っている。あまりに動かないものだから、彼の周りだけに静寂が訪れているかのような錯覚に陥った。
「店主の役は潮江先輩だった、だけど先輩方は自分から行動を起こす事はない。じゃあ、あいつを動かしているのは誰で、何の目的だ」
 三木ヱ門は独り語ちた。猫だけが聞いていた。
「あったぞ!」
「静かに!」
 侍が叫んだので、喜八郎は慌てて彼の口を塞いだ。売り物の中に紛れて置かれていた目的の物を、彼は高らかに持ち上げて得意気に四年三人の顔を見た。
「ここを離れましょう」と喜八郎が急かした。
 三人が踵を返して戻ってくる。猫に気を取られていた三木ヱ門は、はっとして彼らを見た。

三十八
 侍が今手に入れた密書を懐に仕舞った。それを見て、三木ヱ門は反射的に手を出した。
 擦れ違う寸前に掠め取る。巾着切りだ。喜八郎が被害にあった手腕よりも荒っぽい行いだったが、侍は感づいた様子はなかった。
「ほら、盗人が追ってくる前に逃げよう」
 後から来た喜八郎が何食わぬ顔で三木ヱ門を急かした。
 頷く。成功の興奮に多少息が上がっていた。走れば悟られはしない。
 橋を越え、四人揃って葦の茂る河原の中へ滑り込んだ。
「追っ手はおらんか」
「大丈夫だ。店の前には猫が一匹がいるばかり」滝夜叉丸がちょっと頭を上げて見回した。
「猫?」
「気になるか? 獣一匹気にするなど臆病者だな」滝夜叉丸が鼻で笑った。
「何も知らんのか」三木ヱ門は鼻で笑い返した。「まあ無知な滝夜叉丸は脳天気に笑っていられるだろうが……」
「まあまあ」
 侍、つまり雷蔵がお人好しそうな笑顔を浮かべて割って入った。
「こうして君たちの協力によって上手く密書を取り戻す事も出来たわけだし」
「そうですね、私の力添えがあってこそ」
「いや僕の方が貢献していたに決まっている」
「僕たちは何もお手伝いできませんでしたが」
 喜八郎が冷静に返した。全くその通りである。どころか、沼に落とし殺しかけた上、今手に入れたはずの密書は三木ヱ門の懐の中だ。
 だが侍は満足げににこにこと笑って何度も礼を言い、去っていった。

三十九
「上手くいった」と三人が各々の腹の中で呟いた。
 別れ、逆方向に歩いていったふりをして、三人は暫く侍の後を付けていた。全く気がついた風もなく、軽い足取りで足早に町の外へと向かっている。
 途中でもういいだろう、と切り上げて道を戻ってきた。充分離れたところで、三木ヱ門が懐にしまったものを取り出した。
 小振りの急須だ。
「これが密書なのか?」
 掏摸までやっておいて何だが、三木ヱ門が疑問の声を上げた。
「隠されているんだろう。密書が密書だからといって手紙の形をしているとも限らん」
「隠す場所などあるのか」
「殆ど無いんじゃない。探すとしたら」
 三人揃って小さな急須をのぞき込み、うんうんと唸った。
 滝夜叉丸が蓋を外して覗き込む。喜八郎は何となく呆気にとられたような、気を抜かれたような気持ちになってそっぽを向いた。
 滝夜叉丸や三木ヱ門に対してではない。この急須に見覚えがあったからだ。あの、茶柱の急須である。
「これか?」
 何か発見があったらしい。恐らく口の部分に何か細工があるったのだろう。茶柱が異様に出ていた時から、これは茶こしの部分がおかしいのだろうな、と何となく判っていた。だいたい他に隠すべき場所もない。
 この急須は、最初から課題に使うために用意された道具だったのだろう。考えてみれば、あの時の仙蔵や文次郎の態度にも合点がいく。
「どうですか」と喜八郎が言うと、
「ああ」と目を丸くして唸りはしたが、すぐに二人顔を見合わせて何か相談しあった。喜八郎は蚊帳の外である。つまらない。
 要するにどうやって取り返そうか、という話をしていたのだろう。そしてその直後の巾着切りだ。不破雷蔵の変装をしていたのは、あの二人のどちらかに違いない。喜八郎が気がつかなかった事からして、文次郎の方か。
 さっきの店主も文次郎だった。三木ヱ門はすぐに気がついたようだったが、喜八郎の方は怪しいと食ってかかってみて初めて正体に気がついた。あの時判らなかったのも無理はない。
 つまらない結果になってしまった。自分は解答の一端を握っていたのに、最後まで振り回される側だったのである。そういうのは、気にくわない。
 喜八郎はさらに遠くへ目をやった。川向こうの店の方だ。喜八郎達は辛うじて店の影が見えるほどの距離にいた。勝ちが決まったとはいえ、多少警戒しているのだ。
 その店からかなり離れた所に猫がいる。目を細めてみると、店の前にいた灰色の子猫である。それが全く動かないで、ある一点をじっと観察している。
「何も知らんのか」と三木ヱ門が言っていた。あれは、何なのだろう?
 じっと見ていると、猫は突然立ち上がって店の方へ駆けた。
「三木ヱ門、あの猫は――」
「何だ!」
 二人は急須の口から取り出した密書について、どちらの手柄か言い争っている真っ最中だった。またか、と思って気が抜ける。
「何でもない。僕にも見せて」
「ああ」
 気も収まらぬ様だったが、やはり喜八郎が間に入ると多少気が抜けた。一時休戦である。
 二人の手元には急須と密書が入っているらしき小指の先ほどの金属の筒があった。筒の蓋を三木ヱ門が器用に抜いて見せ、中に書き付け入っているのを見せた。
「ここに入っていたんだ」と滝夜叉丸が急須の茶こし部分を示す。
「ふーん」
 知っていたが、一応興味がある風に急須を覗き込んだ。見れば見るほど、確かにあの茶柱急須だ。
「何はともあれ、これで課題は成功だ。一つ上の五年連中にも当然ながら! 私は勝利を納めた!」
「そういえば鉢屋先輩達は何をしているんだろう?」
 三木ヱ門がその名を発した時に、ぱっと喜八郎の頭の中に何がが点滅した。
 変装の名人。偽を偽る事にかけては天下一品の男である。
「これ」滝夜叉丸の手から急須を引ったくる。
 寸分違わぬ。よくできている。
「おい、折角の証拠になにを」
 いや、ほんの少し違うのだ。
「いや、違う!」
 何が違うのか、執着した喜八郎でなければ判りはしないだろう。
 喜八郎は偽の急須を乱暴に放って駆け出した。

四十
 あの三人組の中ではもっとも体力が劣るはずなのに、残る二人は追いつけない。
 喜八郎は何故だかいつもよりも早く走っているような気がした。それにいつもよりも息が上がっている。
 何か強烈な思考が体を貫いている気がする。解答に目明かしをされた瞬間の衝撃である。
 あれが偽物ならば、自分たちは謀られた。誰に?
 五年連中だ。他にない。さっきの侍も偽物だ。糞、と口の中で呟いた。
 陥れるのはよいが、陥れられるのは大嫌いだ。それに、昼間の事もある。六年にも騙された。続いて、これである。
「おい、喜八郎? 違うとはどういう事だ、説明せんか」
「騙されたんだ!」
 後ろの滝夜叉丸と三木ヱ門に向かって乱暴に言い捨てて、さらに加速した。
 あの古道具屋だ。敵役の潜んでいた場所。
「まさか」と三木ヱ門だか滝夜叉丸だかが言った。自分の心音と足音で聞こえない。
 橋の上に、侍がいた! 認識した瞬間に、
「鉢屋三郎先輩!」
 喜八郎が叫んだ。既に相手との距離は二、三間に縮まっている。男はぎょっとして振り返った。手に小振りの急須を握っている。
 あれが本物だ。喜八郎はさらに加速し、男から急須を奪おうと手を伸ばした。
 だがそれは叶わない。男が身を翻しさらに間合いが開く、とその時、
「雷蔵!」
 と猛烈な勢いで何者かが間に割り込んだ。
 一人ではない。片方は雷蔵の手へ金棒を猛烈に打ち上げた。それをもう一人が拳を振り上げて弾き飛ばした。だがほんの少し遅れた。打ち付けられた雷蔵の手から、急須が飛び上がる。
 密書が宙を舞う。橋の下、川面へ吸い込まれるかと思われたが、途中で消えた。
「こちらが本物か!」橋の店と反対側の袂で、滝夜叉丸が叫んだ。愛用の戦輪が、彼の手に戻ってきた瞬間に叫んだのだった。
 確かに手に本物の密書を掲げている。器用にも、投げ飛ばした戦輪の刃のない内側に急須の口の部分を引っかけて自分の方へ引き寄せたのだった。
「早く逃げろ!」
 久々知兵助が叫んだ。先程の拳での一撃が強烈に打ち返されたらしく、拳が血で真っ赤になっている。



四十一
 喜八郎が真っ先に声に反応して、身を翻した。
 だが、
「逃げるなど性に合わん!」
 と三木ヱ門が叫び、懐中より短い竹筒を取り出した。極小型の突火砲である。
 喜八郎が止めようと慌てて手を出したが、間に合わない。
 どーんという局地的な轟音が鳴って、火が走った。元々命中精度の悪い突火砲をさらに小型に作り替えてあるために、何所に飛ぶのか定まらない。
 だが火は三木ヱ門が狙ったとおり、その場にいた六人の丁度真ん中を駆け抜けた。火薬をあまり詰められないために威力は低い。その代わり大量の火の粉をまき散らした。
 飛ばされた火の粉はまるで小さな太陽の如くに、真っ赤な光と熱を持ってぱっと弾けた。
 最も機敏に反応したのは久々知兵助だった。重体のために防衛本能が強く働いたのかも知れない。火矢が走ったかと思うと、その軌道の最も近い所にいた喜八郎を突き飛ばして諸共に河へ落ちた。
 雷蔵も同じように後ろに飛んで避けたが、後一歩下がれば河へ落ちるという所で踏みとどまった。
 突如として襲ってきた男も慌てて避けたようだったが、直ぐに体勢を立て直して雷蔵に向かって構えを取っていた。
 この状況で自らも水に落ちてしまっては、負傷している兵助や後輩達が危ないと思い、踏みとどまったのである。だがここで追っ手と対峙した所で、課題の制約のため大した武器も持たない自分が何の役に立つだろうか、という迷いもあった。二つの思考の間で意識が定まらず、一瞬のうちに散々悩んだが時間切れ、ために留まることになったともいえる。
 それはともかくとして、雷蔵の判断は果たして正しかった。
 追っ手は留まった雷蔵の方に釘づけられる。ちらりと意識を川面に持っていくと、流れる水に幾らか朱が混じっている以外はもう何の気配もなかった。残る二人の四年生の姿もない。恐らく後に続いて行ったのだろう。上手い事逃げおおせたのだろうか。
 雷蔵は演技を止め、平時の顔に戻った。とはいっても直ぐに顔を戻せるわけではないから、見た目は未だ厳つい侍のままだ。
「沖見の隠密か?」
 一応聞いてみるが、反応は無い。現れた時から、呼吸音すら殆ど響かせない程の寡黙な男である。ただじっと標的を睨んで、最も気が高ぶった時に一刀の元に相手を沈めるつもりらしい。
 雷蔵はそういう相手は苦手である。揺れやすい精神のため、隙が多いのだ。そこをつけ込まれる。自分で判っているだけに、最低限度の対処はできるつもりだが、やはり苦手なものは苦手だ。
 息を殺して獲物を狙う姿は猫科の動物を思わせる。目の前の男はそんなに可愛いものではないが。


四十二
 雷蔵は自分の懐中を探って、何もないのを思い出した。そういえば、格闘は禁止だとかで学園を出る際に武器は全て没収されたのだった。
 バカ正直に全て提出してしまった自分が悔やまれる。三木ヱ門や滝夜叉丸のように隠し持っていればよかったのに。
 しかしそんな事を今更悔いても仕方がない。無いなら、武力以外での打開策を考えればいいのだ。
 殆ど呼吸をしていないのではないかと思ってしまうほど、目の前の男は気配がない。こうして視界に入っているというのに、実態のない黒い影だけを見ているかのような気分になる。
 まともにやったって勝てる見込みのある相手ではないのだ。武器が無いのは、早めに諦めを付けられてむしろよかったかも知れない。
「おぉーい!」とその沈黙を破る男の声がした。
 雷蔵は驚いて後じさった。が、足半分程で踏ん張った。でなければ橋から真っ逆さまに落ちてしまう所だった。
 自分と同じ顔をした男が走ってくる。
「そいつは偽物だ! さっきわしを罠に填めて入れ替わったのだ!」
 大声で呼ばわっているのは、さっき毒を飲ませて眠らせた侍である。雷蔵と全く同じ顔を、怒り心頭の赤ら顔に変えて棒のようなものを携えて駆けてきた。
 敵だ。つまり、雷蔵の対峙する忍者にとっては味方の登場というわけである。
 だが忍者は振り向こうともしなかった。振り向けば隙が生じる。
「助太刀致す!」と叫んだ時、雷蔵は戦闘中だというのに思わず吹き出した。
「にせものはこいつのほうぞ、騙されるな!」と、もう一人同じ顔同じ声の侍が物影から飛び出したのである。
 これには冷静な忍者も驚いたと見えて、慌てて背後に振り返った。
「一体何だ?」
「そうかお前、あの女か!」
「女だと? そうか貴様の正体わかったぞ」
 と同じ顔同士、何やらよく判らない言い争いを始めた。片方が偽物で、片方の本物をからかっているのだろうか? だがからかっているのは、どちらのほうだ? 双方ともふざけているようにも、真面目にやっているようにも見える。
 異常な事態に、男が目を回して雷蔵の方に向き直った。
 同じ顔である。また後ろを向く。やはり同じ顔が二人。もう一度雷蔵を見る。
「偽物だと……」
 その時初めて口を開いた。酷く混乱しているらしい。
 よし、この隙に。と雷蔵が思った途端、
「ふざけるのも、いい加減終わりじゃ!」
 ばあん、と激しい音が鳴った。侍が、手にした棒をもう一人の侍へ打ち付けたのだ。
 もう一人とは、当然変装名人鉢屋三郎だ。既の所で後ろへ飛んでかわした。が、地面にめり込んだ棒を見て冷や汗が出る。
 三郎の頭の中に、侍が大木を一刀で輪切りにした光景が蘇った。遊んでいる場合ではない、とやっと焦り出す。
「紀南奥山流、何某左ヱ門」と侍らしい真っ向の見栄を切った。
「僕が相手をする」
 返すように、三郎は言ったが、実際は雷蔵に向けての言葉だった。
 だが三郎とて武器は持たないし、仮に持っていたとしても使いたくない筈だ。どうするつもりだろう、と雷蔵はいつもの優柔不断を出してしまった。迷えば隙が生じる。
 それを見逃すほど敵は未熟ではない。黒い男はさっと川下に向かって走り出した。
「あっ」
 気配の無い忍者である。瞬間に消えたかのようにも思えた。
 そういえば、密書の本物は四年が持って行ったのだった。追っ手ならばそれを最優先に追うだろう。
 一年分幼い下級生三人と、手負いの同級生が頭に浮かぶ。しまった、また迷いのために失態を犯した。
 侍と対峙する三郎を省みる暇はない。雷蔵もすぐに消えた忍者を追った。


四十三
 随分流されたところで、兵助はやっとの思いで川縁の草を掴んだ。体が重い。流されているうちに、体が綿のように水を吸ってしまったのだろうか。
 そうぼんやり考えていたら、今度は急に軽くなった。
「大丈夫ですか?」
 先に河原に上がっていたらしい四年の三人が兵助を引き上げたのだ。三人分の心配顔で、冷や水を打たれたように――実際に体半分は冷や水に使っているのだが――意識が覚醒した。
「ごめん」
 と言葉を発した途端、がぼっと喉の奥から朱混じりの水が飛び出した。
 そのまま何度か咳が続く。その度に僅かずつだが血を吐いた。
「どこか悪いんですか?」喜八郎が心配そうに覗き込んだ。
「というか、先輩。腹からも血が」
「手の骨、折れてるんじゃないですか?」
「ああ、ほんとだ」
「ほんとだ、って」
 河に浸っている間に有る程度は洗い流されたらしいが、自ら上がってしばらく経つとじわじわと血が滲み出していた。吐いた以外に、手と腹だ。
 腹部からの出血が着物を鈍く変色させている。
「傷口が開いたという感じですね。どうしてこんな体で暴れたりするんですか」
 無表情に喜八郎が責めるので、状況にかかわらず兵助は些か笑ってしまった。
「いや、追っ手が雷蔵の方に行ったのに気がついて」
「そういう細かい事じゃなくて、それに気がついたからってなぜ久々知先輩が走るんですか。立花先輩とかもいたんじゃないですか?」
「よく知ってるな」
「質問に答えて下さい」
「思わず、と言えばいいのか、何というか」
「思わず? だいたい怪我はいつのなんですか」
「昨日と一昨日の夜。手はさっき。何だか尋問されてる気分だな」
「手当は」
「昼にお前と会っただろう。その前にしてもらったよ。手はまだだけど」
 と、そこでまた兵助は血混じりの咳をした。草地に軽く朱が飛び散り、それを見て喜八郎が眉間に皺を寄せた。だが兵助の方は意に介さず、平然とした顔で口と喉に残った血を唾と一緒にぺっと吐き出し、口の周りを拭うようにぺろりと舌を出した。
「先輩は時々とんでもなく馬鹿ですね」
「うん? そうかな」
「そうです。すごく馬鹿です。普通の人はそういう怪我をしたら、寝てるんですよ」
 参ったな、と顔に浮かべて、兵助は折れていない方の手で自分の首、心臓を純に撫でた。脈を見たのである。酷い乱れは、無い。
 ならばもう一仕事、と立ち上がろうとしたのを喜八郎が制した。
「借ります」
 といってさっと兵助が袖口に隠していた苦無を掠め取った。
 あの追っ手の迫る足音が、河のせせらぎを乱している。
「格闘は禁止だったんじゃないのか?」
「殺されては元も子もないので。それに、三木ヱ門がもうやっちゃったし」
 指摘された三木ヱ門は視線を逸らした。さっき思わず見せ場とばかりに、隠し持っていた手製の火矢を撃ってしまった。結果的に命は救われたかもしれないが、課題は失格になっただろう。
 さらに三木ヱ門にとって居心地の悪い事に、彼自慢の火器が水に落ちてしまったために使い物にならなくなってしまっているのだ。
 勝ち気な彼も何も言い返せず、だんまりしてしまう。
「しかし喜八郎」滝夜叉丸は奇特にも、三木ヱ門の失態に口を挟まなかった。
「そんな武器を持ったところで」
「確かに僕は必要以上に格闘は苦手だけど」
「変わってやろうか? この武術も忍術も全て学年一、いや忍術学園一……」
「別にいいよ」
 喜八郎が無感情に答えたその瞬間に、鉄が風を切る音が各々の耳に突き刺さった。
 キインと鉄の打ち合わさる音が響く。あわや兵助の首筋に突き刺さるか、という所で喜八郎の苦無が飛んできた手裏剣を弾き返したのだった。
 辺りがしんと静まりかえる。ごたごた騒いでいる場合では無い。


四十四
 その光景が目に入った途端、雷蔵は選択を放棄した。
 課題やら自分の力量やら下らぬ事で僅かに腹の中に残って悩んでいたのが、ぷちん、ときた。
 ただ走る。隠しもしない彼の足音に、喜八郎達と対峙する男はすぐに気がついて振り返った。
 男は鉄棒を振りかざして牽制する、が切れた雷蔵はまるでそれが見えていないかのように迷わず突進した。
 単純な直線だ。動きは読み取られ、その速度に合わせて棒が振り下ろされた。頭をかち割るのに正確すぎるほどの瞬間だ。鋭い風音が雷蔵の耳に入った。
 だが雷蔵が同じ瞬間に一歩抜いて足を進めたため、棒は鼻っ面を掠めたのみだった。
 だのに棒に軽い手応えがある。見れば棒の先に何か白い物が付着していた。
「何だ?」男がぎょっとして目を見開いた。
 侍の顔が、顔の真ん中、鼻の部分から下向きに引っ張られたようにして千切れている。しわくちゃの皮がたるんで両頬に引っかかっていた。千切れた皮の下にはまた別な顔があり、その顔と上の皮の間に畜生の脂肪のような白い塊がぼろぼろと張り付いていた。
 ぞーっとするような光景である。
「何なんだ」
 あまりの出来事によろよろと数歩下がった。だがそこには喜八郎がいる。
「うっ」
 後ろから喜八郎が苦無を突き立てた。うめいて、よろめきながらも驚愕の内に喜八郎の方へ向き直ろうとするが、
「隙有り」
 そう、その隙を見逃すほど未熟ではないのである。
 雷蔵の重たい当て身が男の胴に入った。

四十五
「はい、そこまで」
 振り返って、うわっと両者声を上げた。
「大丈夫ですか?!」
「何だその顔は」
「半端に剥がれてしまって」
「体力馬鹿に心配などいらん」
「会話が咬み合ってないよ」
「うむ」
 頷いて、仙蔵がにやりと笑った。
 現れたのは仙蔵だけではない。審査役をしていた他の六年、中在家長次と七松小平太、それに怪我をした小平太に付き添って善法寺伊作もいた。
「それはそうと、見ろ、日が沈む」
 仙蔵が指さした先の空が明らんでいる。黄金の太陽が山に吸い込まれていく時分だった。
「あっ」と、今気がついたように後輩達はそれぞれに驚いた。
「時間切れだ。とりあえず学園に帰れ」
 課題の期限は日が沈むまで、だった。いざこざの起こっている内に時間の流れを失念していたようだ。
 これでこの面倒な仕事も終わりか、と思うと、四五年一同はーっと肩から気の抜ける気がした。
「あ、でも」
 と雷蔵は自分が倒した男に目をやった。
「後はこっちでやるから心配しなくていい」
 既に長次が男を縛り上げている。皆一辺に気の抜けた上に、何となく尻切れトンボになったような心地だったが、忍者の仕事というのは、結構そういうものだろう。命令をこなせば、それで終わりというわけである。
 しかし今回彼らは命令外の事も多分に行ってしまった。その分腹の中にしこりが残るのだろう。要するに、
「結果は、どうなるんですか?」
 という様な事である。喜八郎が手に飛んだ返り血を川水で洗いながら言った。川岸にしゃがんでいるので、葦に埋もれていて姿は見えない。
「学園に帰ったら先生方から言い渡されるだろう」
「まあ、みんな失格ですよね」
「うむ、ま、不測の事態も起こった事だし」兵助をチラリと見た。「どうなるだろうな」
「でも、目的は果たせたじゃん」
「小平太は無理して喋らなくていいから。さ、怪我人がいるんだから早く帰ろう」
 兵助は伊作に支えられながら立ち上がり、苦笑した。小平太の方には滝夜叉丸がついた。
「それにしても何か忘れているような」
 と顔を川で洗っていた雷蔵が呟いたが、皆仕事が終わった安堵からか聞いていなかった。

四十六
「猫がいたんだが」
 三木ヱ門が呟いた。
「猫?」
「ああ、あの子なら文次郎が連れているよ」
「潮江先輩が、という事は」
 三木ヱ門が何かに気がついた様子だったが、
「心配いらない」と伊作と仙蔵が一蹴したので、それ以上詮索するのは止めた。あまり情報を与えると、また走り出していきそうな気がしたからである。
 だがそう言われると気になるもので、何となく不信感をもった後輩達は中々歩き出さない。仕方なく、怪我人の兵助に肩を貸している伊作が先だって河原を抜けようとした。
「そうだ、思い出した」
「何?」
「そこは危ないですよ」
 と警告した喜八郎は、一応親切に兵助の方の腕を引いた。だがこういう場合、間の悪いのは大抵伊作の方なのだ。
「危ないって、うわっ」
 一歩多く踏み出したために、伊作はあっという間に葦の間に消えた。
「そこは沼があるんですけど」
「は、早く言ってよ!」
 すでに伊作は沼に片足を突っ込んで、飲み込まれていくところだ。
「すいません。でもすり足で歩けば普通判るだろうと思ってまして、場所を失念していました」
「そんな頻繁にすり足で歩いてるわけないじゃないか」
「そうですか? 先輩方は審査員なので地形の事は承知の上なんだと」
「僕は、兵助を追いかけてきただけで、課題とか知らないから」
「そうなんですか?」
「喜八郎、そろそろ助けたらどうだ」冗談のような対話に仙蔵が割り込んだ。
「ちょっと待って下さい。何か大切な事を思い出しそうな気がするんです」
 と言って、喜八郎はうん、と唸った。喜八郎だけでなく、滝夜叉丸と三木ヱ門も何やら考え込んでいる。
「そうだ」再び喜八郎が手を鳴らした。「善法寺先輩、ちょっと沈んでみて下さい」
「は?」
 伊作は必死に立ち泳ぎの要領で浮きながら、周囲の葦にぎりぎり捕まっている状態だ。顔なんか泥だらけである。
 沼というのは、普通の水たまりよりも泳ぎにくく、藻掻けば藻掻くほど吸い込まれてしまう。伊作も側に強靱な太い葦が生えていなかったら既に沈んでいたかも知れない。
「縁起でもない、冗談を言うな」
 一人だけまともに助けようとしていた兵助が苦笑して言った。
「やっぱり面白くないですか」
「ちょっと笑えないなあ。それで何を思いだしたの」
「あ、そうそう」
「あの侍だな」と滝夜叉丸の方が答えた。
 三木ヱ門もうんうんと頷いている。三人とも、沼に沈んでいく光景を見て思い出したらしい。

四十七
 鉢屋三郎は遠くで猫が見ていたのを知っていたので、勝利を確信した。
 動物を使役する忍術というのは結構多いのだが、猫というのはあまり聞かないだろう。だからこそ怪しまれずに使う事ができるというのが飼い主の持論だが、果たして成功していると言えるのか。
 それにしてもあの灰猫の観察眼はゾッとするような何かしら、がある。まあ要するに猫特有の魔性というものだ。が、鍛え上げられた結果、家猫とも野良とも違う刺すような視線を持つようになった。
 とはいえ小さな猫の事、知らなければ判らない。逆に言えば知っていれば、判る。
 三郎はいつからか、猫が自分たちを監視していたのを知っていた。途中、兵助を追い始めたので、おや? と思い注意を向けてみると、猫は確かになにやりら仕事を与えられているようだった。
 兵助が見えなくなると雷蔵に視線を移した。雷蔵が離れると、今度は自分の方を見ているようである。がために、何の気兼ねもなく――飼い主の六年が危機管理をきっちりしているのだと考えたために――大胆な行動に出たりした。
 だいたい間違ってはいない。本当は三郎や雷蔵ではなく、敵を監視していたのだが、そこまで気がついてはいなかった。
 走っていった雷蔵の方はどうなっただろうか。彼の事だから、動くか動かないかで迷って、結局手を下さずに何とか事態をまとめるとかしてやり過ごせそうだ。だがそうでないとしたら、
「一人勝ちになってしまう」
 五間ほどの広い間合いをきっちり開いて、両者睨み合って停止したまま、好機を計っていると見せかけてただ突っ立っていただけの三郎がぽっつりと呟いた。
 敵は機を見た。
 途端、ダンッ、と地面を強く踏み込む地響きと共に、侍は駆け出した。

四十八
 三郎は数歩分、後ろへ飛び退いたが、そのかます切っ先は三郎の読みよりも長く伸びた。頬を掠めて、一筋血が滲んだ。
 窮地に追い込まれているようにも見える。だとして、手助けするべきかどうか。文次郎は成り行きを観察しながら、少しため息を付いた。
 見ると、空は真っ赤だ。もう課題の終了時刻になる。仕方がないので助けるか、と店先に落ち着けていた重い腰を上げると足下にいた猫がにゃあと一声上げた。
「何だ」と言いつつ視線の方を見やって、再び腰を下ろす。
 するとそれを知ってか、
「え」
 と三郎は拍子抜けしたような声を出した。そこに、横に薙ぐ一太刀が襲いかかる。
 一瞬気を抜いたのが不味かった。腹へ的確に打ち込んできた一刀を、かわすことができない。思わず腕を差し出して、袖口に仕込んでいた匕首を抜き打った。
 予想以上に派手な音が散る。力が相殺されず、三郎の匕首はぽっきりと折られ、切っ先が足下に落ちてきた。危うく右足の甲に突き刺さる所だった。
 しかしその危うさに構わず、三郎はまったく別な問題でいきり立った。
「畜生、なんて事をしてくれるんだ」
 思わず悪態を吐く。
「何を言って」と侍が訝しく返すと、
「お前は関係ない!」
 三郎は折れた匕首を手に、直ぐに体勢を立て直す。遠く離れた店先で、文次郎がにやにや笑っているのが目に入ってさらに腹が立った。
 すぐにでも決着を付けて抗議に行きたい。もう三郎の目は相手など見ていなかった。
 その異変は対峙する男にはすぐに判ったのだが、訝しくてなんのことやらと頭を捻ってしまう。折れた匕首を掲げて闘志はまんまんと感じられ、むしろさっきまでよりも隙がない位だ。
 だが様子がおかしい。打ち払った刀の勢いを飲み込んで、何となくもう一度仕切り直すように間合いを取った。
 再び静かな対峙、となろうとしたとき、後ろから、
「三郎!」
 と誰かが駆けてくる。慌てて男が振り返ると、さっき逃したもう一人の若造が一人走って向かってきていた。
 だけでなく、そのうしろにうじゃうじゃと大勢の人影が。
「な、何じゃありゃあ」
 わらわらと走ってくる面子に、見知った相手がちらほらいる。にっくき盗人や、あの手助けを申し出てきた少年たち。何が起こっているのか、ちょっとすぐには判断が付かなかった。
 その光景に釘付けにされていと、
「隙有り」
 三郎がごーんと頭を殴りつけた。

四十九
 背中が痛いので目が覚めた。天井の木目と夕暮れの薄暗い視界に気がつき、何日目だろうかと考えながら体動かそうとした。すると背中の痛みが全身に飛び火するように突き抜け、得に右の手の関節がジンと痺れた。
 肘を曲げて視界に右手を入れると、それは手の形をしていなかった。指に添え木を当てられ、五本全部を固定して布を巻き付けてある。試しにもう一度中指を曲げてみると、添え木に関節が当たって痺れる悼みが脳天まで突き抜けた。
 それにしても、痛い。眠っていれば楽だったのだな、と再び目を瞑って考えた。だが意識し始めると痛みは増すものだ。指の骨は動かさずに布団へ戻し、また眠ろうとするが眠れない。何もしなくても、指の骨と腹の傷がじんじんとなり出してきた。
 こうなっては仕方がない。兵助は目を開け、石のように固まる体を無理矢理動かした。
「はっ」
 勢いづけて、軽く飛び上がりつつ立ち上がる。とん、と足音がなった。
 万全なら食い殺せた音だ。そう考えると余計に疲れたので、保健室を出る事にした。ちょっと振り返って自分が飛び起きたままになっている布団を見たが、畳んで出て行く程の体力はなかったので無視した。
 それで自室に戻って、また布団で溶けるように眠った。白い月が夕暮れの中に上がっていた。
 二日か、と思いながら、慣れた布団の中に溶けた。
 目を閉じた途端に、周りが騒がしくなった。うるさいなと思いながらまた目を開けると、燭台の赤い光が壁にいくつも掛かっていた。
 外は闇夜なのに、室内はやけに明るい。どうしてかまた保健室に戻されているらしい。そしてどれくらいは判らないが、眠っていたのは結構長い時間だったらしい。
「大丈夫ですか?」
 寝惚けているのか、蝋燭の火ぐらいしかまともに見えていなかった。なので最初に声を掛けられてから暫くの間、どのくらいかも判らないほどの時間、口をポカンと開けたまま、目の前の後輩の顔を凝視していた。
 ぼーっとしている間、誰も喋らない。だからまた眠気が襲ってくる。もう抵抗するのも煩わしかったので、兵助は答えるよりも睡眠を選んだ。


五十
 それからはっきり覚醒したのは、三日後の朝だった。三日後というのは、あの沖見に出かける課題の帰宅から数えてだ。その後のいざこざがいつ完全に終着したのか、兵助は知らないまま眠っていた。
 目が覚めた際ににっこり笑った新野先生が障子の向こうに座していたので、だいたいの事が滞りなく済んだのだと考えて、結果は聞かずに自室に戻った。
 その日の昼、食堂に出て行くと滝夜叉丸が演説をしていた。
「……であるから、この私平滝夜叉丸が上級生である五年を打ち負かし、そして学年唯一の唯一の合格者となったのだ。これはひとえに学業、実技ともに日々優秀な成績を上げ、作戦中もその天才振りを発揮して」云々。
 誰も耳を貸さないで食事を取っている中、兵助は一人入り口に立ったままうんうんと頷いた。
「どうした?」と後ろから現れた鉢屋三郎が訊ねると、
「いや、自分の行動の結果を確認していただけ」
「はあ?」
「滝夜叉丸の、言っているのがね」
「ああ、アレはもう三日に渡って演説を続けているよ。もう誰も耳を貸さなくなってしまってるけど」
「最初は誰か耳を貸していたのか」
「あの綾部という子とか、一年とかちょっと」
「ふーん。今日の定食は魚か」
 昼食を注文する列に並んで、先頭の忍たまの頭の上に掛かっているメニューを指さした。
「ああ、追っ手も絶えたみたいだし、低学年も外出できるようになったから」
「絶えたんじゃなくて絶やしたんだろ。こないだので全員だったはずだ」
「良く知ってるな」
「一応自分が参加した作戦だし」
 そこで欠伸が一つ。
「寝てたのか?」
「人間何日間でも寝続けられるんだな。体調が万全じゃないせいか。そういえば、雷蔵は?」
「よくぞ聞いてくれた。僕だ」
「は?」
「いや、僕が不破雷蔵だよ。騙されてくれてありがとう」
「ああ」がっくりとうなだれた。「やっぱり本調子じゃない」
「直ぐに戻るよ。兵助、定食どっちに決めた?」
「鰯の方。雷蔵は鮃か」
「そうそう。兵助が選ばなかった方にしようと思って。よかった、三郎が居なかったから迷ってたんだ」
 定食はご飯、汁物と一品の合わせで、最後の方にならぶと量が僅かに減っていることがある。そのため悩みやすい偶に雷蔵は割を食う。誰かと一緒に来れば相手に合わせるので大丈夫、というわけだ。
「あれ」
 席に着いた兵助が声を上げた。
 雷蔵が覗き込むと、茶に茶柱が立っている。
「良かったじゃないか」
「うん、あー、今日の食事当番って四年かな」
「知らないけど」
「誰が茶を汲んでるか見た?」
「見てない」
 茶は既に湯飲みに注がれて置いてある。無くなったら自分で湯飲みを貰って汲みに行く。だから早い時間に来ないと、最初の茶汲みが誰かは判らない。
「そういえばさ、兵助一回部屋に戻ったって? 保健委員が慌てて寝てるのを保健室に引きずり戻したんだよ。で、このあいだの課題に参加した人がみんな集まって、一体何があったんだ、って話し合ったんだけど」
「そういえば、そういう記憶がある」
「まあ兵助の事だから意味は無いんだろうとは思うけど、あんまり無理しないようにね」
「無理というか、あれは寝惚けていたというか」
 茶柱の浮かぶ茶を一杯すすると、少し目が冴えた。
「引きずったんだって?」
 そういえば、負傷していないはずの背中が痛い。床ずれだろうか。

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