*注 現代パラレル、BLぽい
綾部喜八郎という同級生がいる。いつも呆然としているような顔をしていて、何を見ているのか判らない目をしている。ふわふわとした長めのクセっ毛がと相まって、長毛の大人しい猫みたい。でも血統書付きのような気取り屋でもない。例えばヨーロッパの方の古い街で、風の吹きすさぶ墓場と花畑の間で生きているような野良。
入学当初から話さない仲でもなかった。世界の様々を知っている野良らしく、年の離れた俺にも何の違和感もなく、必要に応じて自然に話しかけてきた。
「デザイン科HCの方ですか」
はじめは廊下を歩いていて後ろから突然話しかけられた。名前を呼ばれたわけでもないけど、どっち向いているのか直ぐ判る話し方をするから、俺が声を掛けられたんだと直ぐ気付いた。
その時俺は一七歳、同級生達よりも二つ年上だった。デザイン学科ヒューマンコミュニケーションデザイン選択(要するに服飾デザインとか)に進むために、それまで通っていた高校を止めて、ここの学校に入学してきた。
周りにそういうやつは少なからずいた。同類意識は生まれない。別に年齢なんかどうでもいいのだ。特に上の年齢で入ってきた連中、俺も含めてそう思っていた。だけど下の年齢の連中つまり現役生は、始めの頃は気にするものらしい。
それで入学した頃の俺は浮いているような大切にされているような変なポジション。
その状態でさも当然のように話しかけていた見知らぬ猫に似た同級生が、綾部喜八郎だった。
「腕が良いと聞いたのですが、斉藤タカ丸さんですよね」
「うん、俺斉藤だけど。誰だっけ?」
「僕は綾部喜八郎と言います」
綾部は普通科の一年だった。普通科の進学クラスの一年だった。八方に矢印が延びる直径一センチぐらいの星型の校章の色が青で、進学クラスの色。
校章は矢印一つ一つが大学で学科としてある美術、放送、デザイン、文芸、映画、演劇、音楽、写真八つを表しているらしくて、俺が入学の時貰った校章はデザインを表す黄色で矢印の一つがちょっと大きい。デザイン方面を射している。
対して普通科はどれとも関係がないので、形は均等な星形だ。
進学クラスは他のクラスとの交流が少ない、と聞いている。特に大学と同じように専攻が別れているクラス、美術、デザイン、音楽と。
成績や人格の軋轢があるとか聞いた。判らないでもない理由だ。
その進学クラスの一年が突然話しかけてきたから、多少緊張した。クラス間で仲が悪いからと嫌な噂もあるわけで、予想だけで何事かと面倒事を期待していた。
それに何より、綾部の容姿が人目を引くものだったし。
だけど驚いている俺と違って綾部は至極当然の振る舞いで続けた。
「お願いがあるのですが、今お時間ありますか?」
というのが、最初にあったときの事だ。
その時頼まれたのは、先輩の舞台を手伝うからメイクだの何だのの事を教えて欲しいということだった。何か、ちゃんとした衣装着るから、顔どうしたらいいか判らなかったらしい。
そういう感じで俺は学校になじんでいった。二年目になっても、同級生達よりも頭一つ高いのは変わらずに。
「そういえば、どこでタカ丸さんと会ったんでしたっけ」
「最初?」
「はい」
綾部は鏡の自分を見ながら、俺に話しかけてきた。鏡の中の目が本当に左右対称の綾部自身を見ているのかも定かではないのに、相変わらず声の方向だけは確かだ。
とは言ってもこの教室には他に誰もいないから、話しかけるなら俺しかいないんだけど。
「廊下だよ」
ちょうどその頃の事を思い出していた。綾部は目尻に赤いシャドウを入れながら喋っていた。
シャドウというか、どっちかっていうともう絵の具みたいなものだ。何事かと思うぐらい真っ赤な発色をする。
綾部と俺の手元には古典的な芝居なんかで使う白粉と紅。元々色の白い綾部は白粉を塗りたくってもそこまで変化は出なかった。そこまで発色の良い白粉にしなかったせいもある。元々のっぺりした顔がよりつるんとした顔になったぐらいの変化だ。
そこに真っ赤なアイシャドウを入れる。赤の化粧は最初は魔よけの意味を持って始まっただとか、先日山本先生が言っていた。この赤、俺はどっちかっていうと今回の企画の成功祈願にしたい。
「どこのですか?」
「学校。もう敬語で喋るの止めようよ、同級生なんだし」
「廊下でしたっけ……」
綾部は考え込んで手を止めた。と思ったら、もう大体の手順を終えたから手を止めただけらしい。
鏡越しに猫みたいな目がこちらを見ていた。赤いシャドウだけじゃなくて、上下しっかり入ったラインがより猫っぽい。
「どうですか」
「うーん」
綾部はまた先輩の舞台を手伝うとかで、今度は和装のメイクを何とかしたいと言ってきた。今回は個人的な頼みではなく、三年の久々知先輩という舞踊家らしい先輩が、学園祭でステージパフォーマンスを主催するからその手伝いをと頼まれたのだ。
俺にはよく判らないけど日本舞踊的なステージだった。一度見たイメージだけで、歌舞伎っぽくしてみようと思い立った。まだ第一案だからその先輩には見せていない。
衣装も綾部の分だけ仮で作ってきたから、メイクと合わせて今日見せに行く。
「もうちょっと、眉が気になる」
「眉ですか」
「太くない?」
「太いんですかね。さっき思い切って描いてしまいました」
「あー」
綾部は相変わらず鏡越しに話していた。
斜陽の時間の教室は多少不気味。一応練習場所では久々知先輩達が練習してるし、デザインや美術の生徒は結構遅くまで学校に残るものなんだけど、この普通科の校舎は授業が終わったらあっという間に人が引く。
メイクの練習なんかあんまり人に見せたくない事に使うには最適だけど、うら淋しい雰囲気は苦手だ。
賑やかな方がいい。
「次はちゃんと確認取ってからやってね」
「はい。直します」
「うん。俺がやるから、ちょっとこっち向いて」
何故か綾部は直ぐには振り向かなかった。ちょっと躊躇った。
「どうしたの?」
「少し拭き取って、上から白粉を塗って、いつもの太さに直せばいいですよね」
「そうだけど」
「ちょっと化粧水取って下さいませんか」
鏡越しのままだった。目はこちらを見ているけど、ガラス一枚越えている。後ろ手に掌を指しだして、化粧水のビンを要求した。
何を考えているのかよく判らないけど、それで綾部は普通だ。
近くにあった安物の化粧水を手渡すと、それをコットンに染みこませて眉の上を拭き取った。綾部の元々の細めの眉が戻るけど、一緒に白粉も落ちて肌色も戻ってきて、変な感じ。
「白粉を」
「はい」
やはり後ろ手に化粧水と交換で白粉を渡した。
もう一度その白粉を乗せて、今度は眉が白く隠れて見えなくなった。
「描くよ」
と眉墨を持って申し出たけど、
「自分で出来るようになりたいんです」
綾部はやっぱり振り返らなかった。
どうしてだか、いい加減不安になってきた。
「できた? ねえできた?」
「もうちょっとです。タカ丸さん、見えてますよね?」
綾部の言うとおり、鏡越しに見えてはいる。でも直接見てるわけじゃない、この手の届かない忌々しさというかイライラ。態度にも表れて仕方ない。
出来ましたといって振り返るまで、忙しなく声を掛けてしまった。綾部の方は何にも気にしていないみたいな自然さで、結局完了した時には普通に振り返った。
「衣装を下さい」
「ここで着替える?」
「何処に行けばいいんですか。これ、着方が判らないんですけど」
「その通りだね」
綾部が広げた衣装は白サテン地の中羽織。最初に見せた途端、「悪趣味ですね」と切り捨てられた曰く付き。
確かに派手だけど、綾部が最初に持ってきた私物の長着がこれぐらいじゃないと対抗出来ないような派手さだったからしかたがない。でも俺が派手なの好きだって言うのが確かに反映されてそうだけど。
「長着に羽織るんだけど、動き回っても周りに派手に邪魔しないように色々してあるから」
「じゃあ着物も着なきゃなんですね」
綾部が持ってきた着物というのが、独特の凹凸の入った灰色のしじら織で仕立ててだった。高そう。それに遠目に見ると銀色に見える派手さ。
「先に着替えておくべきでした」
制服を脱ぎながら綾部が言った。制服や着物にメイクが付くのを気にして、ちょっと手間取っている。
「着付けしようか?」
「大丈夫です。着方だけ教えて下さい」
「着物も?」
「着物は大丈夫です」
綾部は俺より少し離れた場所で着替えている。やっぱり何となく変だと思ってしまう。何か、距離があるような、無いような。
着物を着替える間、無言で何となく居心地が悪かった。綾部といる間は無言な事が多いけど、今日は何でか着替えている綾部に目がいってしまって、目が合いそうになって、ちょっと失敗したみたいな変な気持ちになる。
じっと座っているとどんどんどうしようもない気持ちになってきた。綾部が着替え終わるまで十分もかからなかったんだけど、永遠みたいな感覚。
こういう感覚は苦手だ。何か動いてないと駄目だ。羽織を手にとって、綾部に渡した。
「普通に羽織って」
「羽織帯付いてないんですね」
「うん、見た目的にそっちの方がいいかなって思って。変わりに背中の方、裏に紐付けてるから、帯に結んで」
「手が届きません」
「結ぶよ。これ一人じゃ無理だよね」
綾部の後ろに回って、羽織を捲し上げた。帯はあまりきつくは結んでいないから、別な人がやれば全然難しいことじゃない。
「本番みんなこの形にしようと思うんだけど、全員いっぺんに衣装付け始めたら混乱が起きそうだね」
「本番の流れを聞いていないので僕には何とも」
「そっか、じゃあ久々知先輩に聞けばいい? 着替えとかどんくらい時間有るんだろね。できた」
息を呑んだ。
帯から視線を上げて目に入ったのが、綾部の白いうなじだったから。長めの髪のせいで殆ど日焼けしてない首筋は、白い。そうじゃなくてもあんまり黒くない肌だから。
間違った事をしてしまったような気持ちになった。凄く苦手な感覚だ。
「敬語で話したほうが、話しやすいんです」
「へ?」
「さっき言ってたじゃないですか。ちょっと距離があった方が、タカ丸さんとはいい気がするんです」
さっきって、結構前だ。その話をしたのは。突拍子もない会話。
それより距離があった方が良いって。
「これで完成ですか?」
聞き返す間も無い。はぐらかすのは彼の常套手段だ。
綾部はくるりと振り返って立ち姿を夕日に晒した。イメージした姿と全く同じ。日本の古典的な衣装やメイクの異様さと美しさで、男か女かよく判らない感じに仕上がった。
「久々知先輩に見せてきます」
「あ、ちょっと待って」
「何ですか?」
教室をためらいもなく衣装のまま出て行こうとするのを引き留めた。さっきの、何だったんだろう。
聞き返そうと思ったけど、何となく言えなかった。変わりに適当な話を出して俺もはぐらかす。
「久々知先輩の方に来て貰った方がいいんじゃないの。ほら、学校終わったけど人残ってるし」
「先輩達は今練習中ですから。それに見られて変な恰好してますか?」
羽織の袖を持って、微かに胸を張って見せた。
「タカ丸さんの衣装もメイクも素敵だと思います」
「え」
「恥ずかしくありません」
「そ、そうかな……」
「じゃ、行ってきます」
誉められた? 綾部はちょっと笑っていた。何だろう、さっき言われたのは、冷たい言葉だった気がするんだけど。
距離があった方が良いって。拒絶かよ、みたいな。
でも今普通に誉められた。
「タカ丸さん」
「うん?」
「好きな子の前だと緊張するタイプですか」
「え、何それ」
「っていうかそう言ってましたよね。覚えてます?」
「そうだけど、言ったっけ、綾部に」
「入学式の前日、電車の中です。初めて会ったのはその時ですよ」
覚えてない。何か同じ学校の人達っぽいのと、入学式前夜だとか言って大騒ぎしてた日だ。
綾部に会っただろうか。綾部の容姿なら、一度見たら忘れられそうにないのに。
「でもドキドキするとまともに喋れなくなるから、駄目なんだよねー逆に」
どきっとした。別にやましい意味じゃなくて、綾部がした俺の口調を真似るのが、あんまりにも俺と似てたから。
綾部は声がいい。見た目以上に、声が印象的だ。そしてその声を使うのが上手い。
あ、そうだ。あの時は声は聞かなかった。だからだ。そういえば、会った気がする。でも喋らなかった。だからあんまり覚えてない。
「だから好きな子には出来るだけドキドキしたくないの、判る?」
その時俺は一体何の話してたんだっけ。こんな事言ったっけ。でも綾部の口調は、俺そのもの。俺の真似。
まるで俺の考えをなぞってるみたいだ。
綾部が瑞々しい色に塗った唇をちょっとつり上げて笑った。
なんだこれ。この感覚は良くない。また鼓動が早いような早くないような。駄目なんだ、こういうのは逆に。普通のまんまの方がいい。
「という事なんです。じゃあ、久々知先輩の所に行ってきます」
さっと振り返って、綾部は教室を出て行った。あっという間に。
手の上に残った白粉が、ちょっと重みを増した気がした。俺の引き受けた仕事の重さ、みたいなの。
俺はこれから何度もこうやって綾部と顔合わせて、他のやつとも顔合わせて、メイク手伝ったり衣装着せたりする。本番まで何回ぐらい、綾部のメイクした顔も素の顔も正面から見て、羽織の裏紐を結んだりとかするんだろう。
この感覚は、よくない。
どうしてまたそう呑気でいられるのか、と腑の異常を感じながら考える。でも言ったってどうしようもないんだろうと思うから言わない。
「ドキドキしますね」
「君と一緒じゃなけりゃ、まだ安心なんだけどね」
「大丈夫ですよ、利吉さんですから!」
そう励まされても。だいたい君がいるから心配なんだと言っているのに。胃が痛む。でももう仕方がない、引き返せない。
風の通る裏道は埃と生活臭にまみれている。頭上では細い月が最後の力とばかりに照り急ぎ、嫌な夜になるであろうことを予感している。光りのない夜ならばもう少しマシだったかとも思ったが、それはそれで小松田君が何か言いそうな気がする。「見えません見えません何所にいるんですか大丈夫ですか」とか。忍者目指してるとか言ってるクセに!
「大丈夫ですかあ」
「君に心配される言われはない」
「酷いなあ。僕だって人並みに心配します。あとすごい汗ですけど」
「汗?」
「手が」
言われて握っていた手をパッと離すと、確かにじっとりと汗を掻いていた。さっきむかついたせいだ。怒りを包み隠しきれず、知らずのうちに力が入っていたらしい。
「緊張しますよね」
へらっと笑って再び手を取った。風向きが変わったのを感じたのだ。
腰に差した刀に手を掛けると、小松田君を引きずるようにして走り出した。
追っ手はそう多くないと踏んでいたが、寝静まった家々の間から黒い影の呼吸音が複数聞こえる。包囲されているのか、ただの監視か。走る速度を上げようと試みたが、
「うわっ」着慣れていない着物のせいか、小松田君が派手に躓いた。
だから別な人を使いたかったのに。振り返る暇もなく、取り合えず転んだ身体をそのまま引っ掴んで抱えた。
濃い血の匂いが漂うが、別に敵に攻撃されたわけでもなさそうだ。顔も傷も見えないが、「膝が膝が」と唸っているから多分膝を盛大に擦り剥いたことだろう。
それより優先すべきはこのお荷物を抱えたまま、何食わぬ顔でこの場を切り抜けるという難題だ。出来るだけ穏便に、との言い渡しが有ったのだが、この周囲の忍者の数が既に穏便でない。
忍びの者なれば、おそらく敵対側も被害を被ったと言い出しにくくはあるだろうが、さてどうしたものか。
数人斬り捨ててしまえば、逃れるのも多少楽になるのだ。だが斬り捨てた相手が本当に隠密であるのか、あちら側の道楽息子であるのか私に判断は出来ない。
だからわざわざ浪人風に変装して来たというのに。ちょうど良いから小松田君を連れて行ってくれと父上に言われたのが運の尽きか。
いや最初は上手くいっていた。女連れならばなめられるだろうと踏んで女装させたのが功を奏した。だがよく考えたら小松田君がまともに変装なんか出来るはずもないんだ。あっというまに不自然さに目を付けられる。
そうして結局こうなるわけだ。
川に面した大通りにようやく辿り着いた時には、監視の目は十にも増えていた。
だいたい普通にやっていれば怪しまれる事など無かったはずだ。
依頼の物を古道具屋より掠め取った後、小松田君が不用心に「それ綺麗ですね」とか余計な事を言うから。ずっとめざとく店先を監視していた小者にあっさり感づかれてしまった。
何でこんなものが大切なのか知らぬが、血を見るほどの争いを両家繰り広げながら集めている刀の鐔。向こうより先に手に入れて欲しい、だが古道具屋が足元を見て高値を付けるので何とかして欲しいとの依頼だ。
よく考えなくても小松田君さえいなければ、半日かからなかった筈だ。
なんでこうなるかな。
「浪人殿」
暗がりより女が一人現れた。胸元を広くはだけた辻君を装っているが、目の色呼吸の音足運び、どれをとっても隠密の訓練を受けた者だ。
「女なら今は事足りている」
非常に間抜けな話だが、小脇に抱えた小松田君を指さした。もう堅気ではないとばれているだろうが、男とまではばれていないだろう。そうじゃないといくら何でもこの状況は間抜けすぎる。
女はすすとすり足で間合いを詰め、片手を胸の上、もう一方で短い着物の裾を捲った。誘っているのは見せかけだけで、即座に暗器を取り出す構えだろう。
「そう言わずに、旦那とその懐の金子が欲しいんじゃ」
周囲の監視が一旦列を乱した。かと思うと、皆均一な距離を取り呼吸を一斉に止めた。
来るか。
片手を再び柄に添えた。この体勢からでは(というか小松田君を小脇に抱えたままでは)はっきりいって抜き打つ事すら出来ない。なりふり構わなければ取り合えず抜くだけは出来るが、それにしても戦えるわけがない。
「お連れさんは眠っているように見えるが」
「近所でも評判の呑気者でね」
輪が詰まってくる、逃がさないつもりなのか。そこまでしてこのちっぽけな鐔を欲しがる理由が判らない。仕事内容にとやかく言うのは好きではないのだが、こう理不尽な目に遭っていると文句の一つも言いたくなる。
周囲の忍者の統率の取れた動きもただものではないし、目の前の女だって恐らく相当な手練だ。隠密としてよりも用心棒としての側面が強いのだろう、化粧の笑いに自信が満ちている。
そんな中呑気に寝ているこの小松田の莫迦! 一体どういう神経しているのか解剖して見てみたいもんだ。
私は何の前置きもなく、どさりと小松田君を道に落とした。
「何事じゃ」
女が叫んだ。彼女が抜き打つよりも早く、懐へと飛び込んだ。
赤い月明かりが白い女の肌に落ちている。二本差しの片方、脇差しを音もなく抜き、柄で横腹を突き上げた。
「ぐがっ」
色付いた唇から似付かわない叫びが洩れた。この女、公に出来ぬ生い立ちであれば良いのだが。両家の対立上のヒビとならないならば。
もう後戻りも出来ない。飛び退いて体勢を立て直そうとする所に、片手でもって脇差しを振り上げた。
女が目をかっと見開いた。女の背後には川。
「利吉さん!」
刃先が女の額に吸い込まれようとするその刹那の前に、背中を突き飛ばされた。
狙いは明後日の方向に逸れる。どころか、斬り打とうとして付けた勢いが踏ん切り付かず、女もろともそのまま川面へ。
その落ちていく間に咄嗟に思い女を上方に弾き飛ばすと、取り囲んでいた影が動揺に揺れたのを感じた。
ざぶんと水面を一人叩き沈む。かと思えば、もう一つ水面に何か落ちる音。
小松田君だ。水面に赤い軌跡を残しながらこちらへ泳いでくる彼を慌てて回収し、追っ手来るであろう影を避けるためさらに深くへ潜った。だが何所まで進んでも追う気配はない。
息が足りなくなって壁づたいにそっと顔を上げると、最早諦めたのか捲いたのか、追っ手は無くなっていた。
ここで上手い事、私と年格好の似た水死体でも上がってくれれば話は早いのだが、そのアテもない。間抜けな話極まりないが、そのまま泳いで依頼主の屋敷へと水脈づたいに侵入することとなった。
「いやあ、間一髪でしたね」
「君がいなけりゃ、最初からあんな窮地には至らなかったんだけどね」
馬耳東風か。言っても仕方がない。
「でも大丈夫ですかね、あの鐔は。濡れてしまいましたが」
「元々錆びていただろう。そういうのは、一度思い切って水に当てた方がいいんだ。その後根気よく磨かなければいけないけどね」
「へえぇ」
遠くより、警備の者が近づいてくるのが聞こえた。私が雇われているのは内部にも伝えられていないらしいので、見つかると事だ。
「行くぞ」
と即して、漸く気がついた。小松田君の片足が血だらけだ。これでは立てるはずもない。見ると片足に深く棒手裏剣が突き刺さっている。転んだのはそのせいだったのだ。
何で言わなかったのか。いやそれよりも気がつかなかった自分が情けない。
だが何やかやと言っている場合でもないので、取り合えずまた小脇に抱えて移動する事にした。
「足は大丈夫なのか」
小声で訊ねると、
「立てないので助かりました」
今度は意図を介してくれたらしく、小声で返ってきた。
うん?
だが何か引っかかる。立てないのであれば、さっきの川岸での動きは何だったのか。あれのお陰で助かったと言えなくもない。
当主の部屋まで屋根伝いに走りながら、ちょっと小首をかしげた。見ると、小松田君は額に玉の汗を浮かべている。痛いはずだ。だが見上げた事にもううなり声も押さえている。
この傷で立ち上がり人間一人を突き飛ばすのは一仕事だ。
どうやら今回はこの根性に助けられたらしい。元々の困難を作ったのはこいつに違いないが、取り合えず今はそう思っておこう。
今年は妙にあたたかい。暦の上では未だ春の筈なのに、昼間太陽の高い頃には既に夏の陽気が唸りを上げている。昼間にもなると、外に出ているだけでじっとりと汗がにじみ出てくるほどだ。
しかしだからといって夜中に行水する莫迦はいないだろう。ここのところ夜は寒いとは言い切れないものの、ひんやりとした冬の残りの冷気が漂っている。そんなふうだから、水浴びなんぞしてしまうと、その冷気に当てられ風邪でもひきそうな感じがある。
だから、昨日の夜見たのは何かとんでもない事情が有るに違いないと考えた。
「西の井戸あるだろ、長屋から一番離れてるやつ」
「あるね」
「あの底は何所に繋がってんだ?」
伊作は作業の手を止めると、窓の外に視線をやった。虫獣を扱うための部屋に取り付けられた窓は、窓枠が鉄で固められており、そこに木製の外窓と障子張りの内窓が二重に取り付けられている。猛獣や毒虫を扱う際のための考慮で、出来る限り光りも取り込まないように作られていた。
今はその二重の窓どちらも開いているが、採光を意図していない小さな窓から差し込む光は弱い。
その狭い窓からは外の風景が小さく切り取られていた。
「あそこは水脈との距離が近いから、抜け穴は作られてないと思うけど」
「じゃあ抜け穴以外になんかあんのか」
「井戸の底に?」
そうだ、と頷いた際に気がゆるんだのか、文次郎が手元で押さえつけていた百足が一匹脱走した。全部潰したと思っていたが根性のあるやつもいるものだ。
それを伊作がひょいと掴み上げて、手にした針でもって頭を一突きした。本来なら生け捕りにした方が効果的なのだが、こう大量に発生すると面倒でぞんざいに扱ってしまう。
「なんでそんな事訊くんだ?」
「昨日の夜中に仙蔵が井戸に降りていくのを見たんだよ。行水するわけじゃあるまいし、何かあるかと思ってな」
「ふーん。まあ何があるか知ってても文次郎に言う義理もないけどね」
「何で微妙に辛辣なんだよ」
伊作はさほど興味を示さなかった。
全ての百足が手際よく止めを刺され、油の入った朱色の壺に放り込まれた。その際に百足の足についた泥を刷毛で払う。十分に注意して数匹に分けてそれぞれの壺へ放り込んだ。
「ちょっと捕まえすぎたね」
伊作が言うように、既に壺は二十を越えてしまった。
百足の油漬けは、火傷や切り傷にすり込むとたちどころに効果の現れる強薬だ。だいたい百足一匹で約半升ほどの油漬けにすることができる。半升というと、外用薬としては結構な量だ。壺一つにおおよそ一升の油を入れ、百足を多めだが三、四匹入れている。それがもう二十以上だ。
薬なんだから有って困る事はないが、このままでは壺の方が足りなくなる。
「用具倉庫に壺をもらいに行ってくれない?」
「おう」
部屋を出るときに既に百足入りとなっている壺が積まれているのをまじまじと見た。あれの中に入っている足を数えるとどの位になるのだろうか、とどうでもいい事を考えた。いくつもの足が頭の中を踏み荒らすような何とも言えぬ不快感。
薬になると言っても、あまりよい感じはしないな、と思った。
用具倉庫に一年の忍たまがいた。山村喜三太と福富しんべヱだ。
「赤い薬壺が欲しいんだが」
用事を伝えると、二人のころころした生物が扉を開けてくれた。虫獣部屋も暗かったが、窓の無い用具倉庫はさらに暗い。
さっきまで百足を放り込んでいたのと全く同じ壺が、木箱に詰められて十ずつ並んでいた。一箱持って行けば事足りるだろう。
「そういえば、お前ら仙蔵と仲良かったな」
ふと思い出したので言ってみると、二人ともにやーと気の抜けた笑いを浮かべた。こいつら本当に忍者になれるんだろうかと勝手に心配をしてしまうぐらい平和な笑顔だ。
「やつは井戸の話をしていなかったか」
「井戸?」
「昨日の夜にあいつが井戸に降りていくのを見たんだよ。ここから一番離れた西の井戸だ」
「さっぱり判りません」
そう簡単に判りはしないか。別に大した期待をこめていたつもりではなかったのだが、多少の落胆が残った。
「ならいい。邪魔したな」
木箱を背負って出ようとすると、
「いえいえ、またのご利用をお待ちしております」
「しんべヱ、それなに?」
「パパさんが出て行くお客様にいつもそう言ってるの」
「なるほど。じゃあ僕も、またのご利用を……」
「それより、ちょっと待て」
僅かに開かれた扉の間に、今一瞬仙蔵の姿が見えた。
「ほれ、あそこを見ろ。仙蔵に訊いてきてくれねぇか?」
「何をですか?」
「井戸の話だ。上手く聞き出せたら団子かなんか奢ってやる」
「ほんとに!」
しんべヱが目を輝かせた。
こう、どうしても判らないとなると気になって仕方がないのが人間の性というものだろう。何となく大した結果にはならないのではないかと思いつつも、知りたい。
喜三太としんべヱの二人が大喜びで仙蔵の元に走っていったので、何となく仙蔵に見つからないように陰を伝いながら虫獣室に戻った。
その晩に、喜三太としんべヱの二人は薄ら明るい月明かりの中を、西の井戸に向かって走っていた。
昼間は結局仙蔵の口を割らせる事が出来なかった。文次郎にも結果は報せたのだが、こうなれば自分たちで確かめようと思ったのだ。
やはり夜は薄ら寒い。春を追い払うかのような真昼の暑さから宙ぶらりんのまま取り残された湿った大気に、冬の残した冷気がじっとりと染みついている。あまり過ごしやすいとは言い難い空気だった。
「やっぱり水浴びしてたんじゃないの? ナメさん達もこんなに暑い日が続くと水浴びしたいって言ってくるもん」
「それだったらあんな遠いところまで行かなくていいよ。抜け道とかじゃないかなぁ。じゃなきゃ、宝物とか」
二人の後輩の後ろ姿を、当の仙蔵が苦々しい思いで見ていた。仙蔵は二人に感づかれぬよう、屋根の上を走っている。
それにしても絶対に近づくなと言って聞かせたのだが、好奇心旺盛な後輩には逆効果だったらしい。早く止めに入らなくてはと思うが、あまり関わりたくない。
色々と思案している時、ふと道を逸れた茂みの方に、怪しげな影を見つけた。
誰だ? 動きを見るに、見知った者ではない。弱い月明かりの落とす影だけが、茂みの中の不審者を示している。
後輩二人を止めるよりも、不審者の確認の方が先だ。そう判断した仙蔵は、すっと屋根の上に立ち上がった。校舎の影の延長に、仙蔵の細い影が産まれる。
かと思うと、もう一つ人影が隣に現れた。
「仙蔵、くせ者だ」
文次郎だった。示し合わせたかのように、級友である二人は合流した。
「さっき学園長を暗殺に入った刺客を長次が取り押さえた。伊作が吐かせたんだが、それによるとどうも仲間がいるらしい――」
「あれか」
仙蔵が視線で影を示す。
文次郎はその影を確認した後、ちらりと横目で校舎の影に目をやった。
「二人だけだな。逃げ出すつもりらしいが、そうはいかん」
「ここは手分けして、と言いたいところだが」
喜三太としんべヱは周囲の異変にも気付かず、何やかやと楽しげに言葉を交わしながら井戸に向かって走っていた。
「あれが心配だ。何故だか知らんが狙われている」
仙蔵の言うとおり、とことこと走っていく小さな二人を不審な影は追っているようだ。
「隠れて護衛するしかなかろうな」
仙蔵はうんざりしているとでも言いたげだったが、
「優しいじゃねぇか」
「何だ、何が言いたい。さっさと行くぞ」
面を月明かりに背けたまま、素早く屋根から飛び降りた。
何者かにつけられている事は承知していた。一人目が捕らえられた時点で、既に退路は細く険しい道となっていたのだ。
任務に失敗した悔しさと逃げ出すしかない情けなさに、逃亡者の片割れは微かに悔し涙を流した。年の頃は仙蔵達とそう変わらない。前を行く一回りほど年の離れた仲間は彼を振り返らない。つまりは自分が見捨てられてしまった事を悟り、さらに悔しさが増した。
青年は後者の影で息を殺して走り、月明かりの散策をなんとか逃れようと必死だった。
その状況がひたすらに悔しい。まるで無能者であるとでも言わんばかりに仲間には見捨てられ、同じ年の頃の若造に追撃を受けている。逃げおおせるのが不可能ではないかと絶望的な観測が強まるほど、悔しさは内臓の内へと切迫してきた。
落ちそうになった涙を拭った際に、背後に一人が降り立ったのを感じた。着地の音が妙なまでに軽い。綿足袋を履いているのだろうが、それにしても尋常でない身のこなしであるのが判った。
だが先程まで追跡していたのは、偉丈夫の青年だった筈だ。弱い月明かりに照らされ、一瞬だけ相手の顔を見た。それは年に似合わぬ眼光の持ち主で、身のこなしもどちらかというと力強い無骨さが隠しきれずに出ていた。
今、背後に降り立った追跡者は確かに別な人物であるらしい。身のこなしが全く違う。ということは、追っ手が二人に増えたということだ。
青年は僅かに唇を噛む。追っ手が一人ならば、何とか逃げおおせるのではないかと考えていた。しかし複数存在するとなると話は別である。
背後の人物はヒタヒタとわざとらしい足音を立てながらゆっくりと接近してくる。隙のない足取りだが、刀も手裏剣も取り上げる様子が無い。
(ここで仕留めるつもりはないのか?)
青年は影を縫いながら考えを巡らせた。もう一人が何処かにいることは確かだ。何処かで監視しているのかもしれないし、先を行く青年の仲間の追跡をしているのかもしれない。
先を行く仲間が木々の間をそろりそろりと進んでいるのを見て、彼は少しばかり残忍な手を思いついた。あちらの方に追っ手の意識を逸らせば、逃げやすくなるだろう。詰まるところ、囮に使おうというわけである。
(いや残忍だとしてもかまうものか、先に見捨てたのはあいつの方だ)
日頃から年下であるために何かと小間使いのように扱われていたことを考えると、多少残忍であっても正当であるように感じられた。都合の良い事に、あちらの方は青年を犠牲にしても逃げようとまで考えているわけでもないようだった。つまり単純に置いて行かれているだけである。
追いついて、何とか追っ手の前に踊り出させればいい。
しかしそれにしても、背後を一定間隔で追ってくる足音は妙に慎重だった。訝しく思いながらも目線を先に移動させると、危なっかしくとことこと走る子どもが二人並んでいる。その二人が石にでも蹴躓いたのだろうか、ちょっと足取りを歪めると、背後の足音にも動揺が走った。
後ろの人物はどうやらあの二人を問題にしているらしい。だとすれば、つけ込む事が出来る。
先を行く仲間はそれを狙っているらしい。らしい、というのは要するに彼は仲間が何を意図してこちらに逃げているのか聞いていなかったからだ。忍術学園のこの方面は、確か背後が険しい森に囲まれ、逃げ出すにも隠れるにも相応しいとは思えない。何しろ地の利は学園生徒にあるのだから。それを考えると街道に逃げでた方が、まだマシだ。
だのにこちらに逃げ出たのは、あの二人を追っての事らしい。
彼らが何を話しているのか、彼の所からは聞き取れなかった。何のためにこの夜中に走り回っているのかもよく判らない。そう考えると逆に不気味でもある。
「おおい、おおぃ。……」
突然、頭上から声が降りかかってきた。じっとり湿った気味の悪い擦れ声である。
一瞬身体が固まったが、直ぐに再び校舎影の闇に身を隠した。
壁伝いに周囲の気配を探る。背後を歩いていた人物が、同じように影の中で息を止めている。だがそいつだけではない。声を出した者が、遠くなり近くなりにいるはずだ。追っ手がさらに増えたのか?
こういう場合、若く経験の浅い青年は動揺が激しかった。先を行く彼の仲間は動じることなく歩みを進めている。何を目的に進んでいるのかは判らないが、確信を持った足取りだ。
青年は額に浮かんだ汗を拭った。寒風が吹いているというのに、緊張のためか身体は激しく火照っていた。
「聞こえるかぁ……」
これは間違いなく、動揺を誘っているのだ。木々の影で息を殺した追跡者は、微かな殺気を鋭い棘のようにこちらに向けている。これ以上留まっていれば、一突きの元に突き殺されるのではないかと、心臓がぞわぞわした。
青年はもう一度額の汗を拭い、意を決して影より飛び出した。
足音もない、あざやかな走りだ。僅かばかりの月明かりに頼るしかないこの夜では、誰も彼の影を見咎めることもできないだろう。
「待て!」
凛と張った声を張り上げたのは、他でもない仙蔵だった。二人の後輩の身を案じるばかりの失態だった。冷静に追う事を忘れ、隠れていた物影から身を躍り出し、侵入者の微かな影を探した。
青年は既にその先の茂みに飛び込んでいた。彼の仲間が潜んで移動していた薄暗く冷たい木々の間だ。急に追いついてきた青年に驚いた年上の忍者は、驚愕した顔を青年に向けた。
「ぎゃっ」
押しつぶした悲鳴を上げて、男は茂みから跳ね飛ばされた。青年が不意打ち同然に蹴り上げたのだ。
「何をするか!」
抗議の声を上げた男は背後に迫る仙蔵に気付いていなかった。茂る植物の影からそれを確認すると、人知れず笑みが溢れた。
(あいつが存分に立ち回れば、俺が逃げ出すのも楽になる)
自分を追っていた忍者が、情けなく転がる侵入者の方に気を取られたのに残忍な喜びが湧いた。恐らく男は逃げられないだろう。それを思うとまた、気持ちがはやった。姿が月明かりの元に照らし出されるのにも構わず、この騒ぎに気付かずに走ってゆく一年二人に向かって飛び出した。
だが、踏み出した足が、異常に熱い。
異常を感じて息が止まる。何故か、目の前で銀色が弾けた。
何が起こった?
「聞こえるか?」
今度ははっきりとした声で響いた。文次郎である。抜き身の忍刀が銀に月明かりを照り返している。
青年が痛みに歪んだ顔を上げたため、文次郎は月明かりの下ではっきりと相手の顔を確かめた。それがどうだというわけでもないが、自分とそう変わらない年の頃である忍者にある種の哀れさを感じた。
「百足の毒だ。命に別状はないが――」
青年は慌てて間合いを取った。負傷した足を庇い、ぎこちなく数回後ろに飛びしさる。およそ四間ほど下がったところで、背後の森に背中が当たった。
改めて足を見やると、そこにはごく短い竹の棘が刺さっている。
何だこれは、いつの間に?
考えを巡らすに、いつでもその機会はあったように思う。何しろ彼は仲間に一矢報いる事ばかり考えて、もう一人の追跡者についての警戒を怠っていた。それに今にして思えば、仙蔵が先に下に降り立ったのは、注意をわざと向けさせるためであったのだ。
こうなると逃げ切れる算段はほぼ無いに等しかった。何しろ敵地ど真ん中。対峙する相手の力量は判らないが、ただ単純に数を計算すると二対二。そして自分は片足を毒にやられている。
「くそっ」
悔しさと痛みに微かに目が霞む。毒は頭に回る類のものではないらしい。意識ははっきりしていることもまた惨めだった。
文次郎がじりじりと間合いを詰める。
青年が掌に暗器を握った。こうなればもう力業で抜け出すしか術はない。
それに気がついた文次郎が、もう一人と対峙していた仙蔵へ目配せをした。
暗器というのは、得体が知れない以上に間合いが計れないという性質がある。つまり仙蔵が心配している一年二人に被害が出ないとも言い切れない。半町ほど離れたところを呑気に走る様子を見ると余計な心配だろうかと思わないでもないが。
僅かに意識を逸らした文次郎の隙をついて、青年が動いた。
ギュゥゥと堅く風を切る音が立つ。青年の掌から放たれたのは、流星錘という中国の暗器の一種だ。袖の中に隠された白い縄の先に、長い四角錐体の錘(おもり)が取り付けられている。鋭く腕を伸ばす動作で一間ほど離れた文次郎の喉元へと迷い無く飛ばされた。
それを文次郎は刀でもって白縄を切り裂こうと、軌道線上に刃を立てた。
だが、恐ろしく丈夫に編まれた白縄に刀は完全に攻略された。バキンと音を立て、短い刀身の中程から見事にへし折られる。
その反動で先端の錘は文次郎から逸れることとなったが、折れた刃が有らぬ方向へ飛んでゆく。
「文次郎!」
仙蔵が背後から声を上げた。飛んだ刀身が仙蔵の方へ落ちていったのだ。だが振り返る余裕もない。文次郎はためらいなく折れた刀を相手に向けて飛ばした。
それをかわしながらも、青年は巧みに青年は巧みに白縄を操り、全て出きったように見えた縄を握りしめもう一端に付いた錘を逆の手で飛ばした。
今度は円を描く軌道である。
片腕を捨てる。咄嗟に判断した文次郎は、敢えて錘の先端に向かって腕を差し出した。
骨の折れた衝撃。だがそのかわり錐の勢いはほぼ完全に殺されることとなった。もう一手を相手が繰り出すよりも早く、流れるような動作で文次郎は相手の懐へ飛び込んだ。
足を負傷した青年は、文次郎の追撃を避ける事ができない。
しゃがみ込んだ所から、勢いづいた拳が顎を襲った。
悶絶した若い忍者を片手を負傷もものともせず手早く縛り上げる。さてこれで全て片づいたぞと文次郎が仙蔵を振り返ったその時だった。
「そこをどけ!」
仙蔵がものすごい剣幕で駆けてきた。
「うん!?」
「莫迦共めが!」
何だそれは、共とは俺も入っているのか?と疑問が脳内を駆けめぐっている間に、仙蔵は先程折れて飛んだ切っ先側の刀身を横手に投げ飛ばした。
それは文次郎の顔を掠めた。横っ面に風がそよぐ。
「なにしやがる、おい、待て!」
飛ばされた刀身は、勿論文次郎を狙ったわけではないと当人も判ってはいた。仙蔵のすることだ、狙ったならもっと安全で嫌みな傷跡になるように工面するだろう。文次郎の先に、切り裂かねばならぬ相手があったのだ。だがそれにしても他に方法はなかったのか?
その仙蔵は文次郎の方など見向きもせずに、切っ先を飛ばした方向へ駆けていく。井戸、または一年二人の場所。
「しんべヱ、喜三太! その井戸に近づくな!」
「はにゃ?」
喜三太は将に井戸へ降りていく寸前だった。へりに登り切れなかったしんべヱは、精一杯の背伸びをして井戸の中を覗き込んでいる。
「はあ、はあ、……は、ははははは! 遅かったな、おれは逃げるぞ!」
そこに茂みから飛び出したのは、もう片方の侵入者だった。亀の甲より年の功というが、年齢が裏目に出たか激しく息切れを起こしている。仙蔵の隙をついて逃げたのはいいが、闇雲に走るので相当体力を消費したのか。だけでなく、左肩に深々と刺さった折れた刀も息切れの原因らしい。勿論それは先程仙蔵が飛ばしたものだ。
「何で逃がしてんだよ!?」
「お前の刀が飛んできたからだ! はた迷惑にも程がある!」
「そんなのは言いがかりだろうが」
「ともかく! そこを動くな」
仙蔵は懐より宝禄火矢を取り出し、威嚇のように三人――しんべヱ、喜三太、それとまだ肩で息をしている中年忍者――にむかって翳した。
「動くなと言われてはいそうですかと言えるものかぁ」
体力の限界であるように見えるが、意外に素早い動きで中年忍者は井戸のへりで硬直していた喜三太を鷲掴みにした。しんべヱの方も捕獲しようと手を伸ばしたが、刺し傷が邪魔をして上手いように動かない。
「何をするつもりだ」
「逃げるのよ、決まっておるわ!」
最初に恐れていたことが見事に現実になってしまったのである。小脇に抱えられてしまった喜三太は今や人質同然だ。足下で呆然としているしんべヱも、最悪の事態がよもや考えられなくもない。
仙蔵が口の片方を引きつらせた。怒りだか笑いだか判別が付かない顔だ。
「さっきからこのガキ共が不用心にも噂しおったぞ、井戸に秘密があると! 忍者の住まいに秘密があるとすればそれはすなわち抜け穴に違いないて」
忍者は喜三太を小脇に抱えたまま、ひらりと井戸のへりへ飛び上がった。
「では、さらばだ!」
「待て!」
仙蔵が手にした宝禄火矢を投げた。井戸の前で爆発が起こる。
焦ったのか相手は喜三太をぽろりと落とし、自分だけ井戸の中へ飛び込んだ。
「あ、きさんた!」
滑り込むようにして、仙蔵は喜三太を受け止めた。既の所で井戸に落ちる危険を免れる。
ぼちゃん、と水に重い物が落ちた音がした。その音を聴いて、仙蔵は喜三太を抱えたまま、立ち直してふうと長く息をついた。
取り合えず危険は去った。
「立花先輩」先に落ち着いたしんべヱが声をかけた。
「何でここに居るんですか?」
「侵入者を追ってきたのだ」
と言って仙蔵は井戸を指さす。そうじゃないだろ、と文次郎は言いそうになったが、それよりくせ者の方が先だ。
「抜け道があんのか?」
文次郎が井戸を覗き込んだ。
「ない」
きっぱり言い切った仙蔵は、次々と新たな宝禄火矢に火種を与えている。
「じゃあ何だってんだ」
「まあ見ていろ」
言うと、仙蔵は数個の火矢を井戸の中へと放り込んだ。
バン、と弾ける音と「ぎゃあ」という短い悲鳴が共に井戸の中で反響した。
勿論井戸には水が溜まっているので、宝禄火矢では致命傷には至らない。数個の火矢は爆発せず沈んだのかもしれない。何にせよ、爆発が終わった後も井戸の中をばしゃばしゃと泳ぐ音が続いている。
一体何なのだ、と文次郎が視線を向けると、
「そろそろだ」
仙蔵が計った時間は恐ろしく正確だった。きっと一度経験済みであったためだろう。
「うひょっ?」何とも言えぬ間抜け声が聞こえたかと思うと、
「う、うわ、何が……ひ、手に! う、ぎゃぁぁぁぁぁぁ!」
断末魔のような悲鳴が響いた。
そのあまりの壮絶さにしんべヱと喜三太は再び固まってしまっている。
「何だ、あれは?」
「百足だ。大方くせ者は全身を噛まれているんだろう。ここに大量発生しているのを発見して、今日の昼間に誘き出せるぶんは誘き出して捕獲したんだが」つまりそれが昼に伊作とともに油漬けにしていた百足だったのである。「残っていたのを火矢で脅かしたんだ。ちょっと下がった方がいい」
忠告に従って、文次郎は折れていない方の手でしんべヱを抱えて二、三歩下がった。
すると、うわっと十数匹の百足が上がってきたではないか。
流石の文次郎も不気味に思って、さらに何歩か後ろに退いた。
「三年の伊賀崎辺りが興味を持っても厄介だと思って秘密にしておいたのだ、が」
仙蔵は懐から鍵縄を取り出し、井戸に投げ入れた。
「莫迦な忍者もいたものだ。大人しく捕まれ」
「おお……」
井戸の中から心身共に疲弊した声がか細く響いた。
それにしても後から後から湧いてくる赤光りする胴と沢山の足、しかもどれも大物と来ては何とも言い難い恐怖である。文次郎も何度か噛まれたことはあるが、あれは大物であればあるほど地獄の痛みだ。何せ夜の床、痛みで眠りにつけなくなる程である。
やがて長い時間を掛けて疲労困憊の中年忍者が救い出されたが、仙蔵の予想通り彼は全身を百足に噛まれ真っ赤に腫らしていた。
相当な痛みであることは間違いない。その姿を見ると思わず、以前噛まれた痛みがぶり返してくるようで、文次郎はおのれの折れた腕の痛みすら忘れてしまいそうだった。
きっと今回のくせ者二人は保健室に担ぎ込まれ、あの百足の油漬けでもって治療されるのだろう。それを考えるとまた頭の中で数匹の百足が走り回り、背中にぞくぞくと広がる不快を感じる。文次郎は思わずこの運のない二名に同情した。
*注 現代パラレル
≪附属中学美術講師二年一組担任、兼美術学科絵画非常勤講師土井半助≫
なんだか周りの視線が痛い。あそこに立ってる女子高生なんか、さっき指さして嫌そうな顔をした。隣に座っているおばちゃんはなぜか身体を私の反対側に逸らし、距離をおこうとする。おばちゃんの巨体がその隣のサラリーマンにのしかかっているのは、私の責任なのだろうか。
駅に止まり、おもむろにドアが開いた。女子高生の集団がけたたましい声で「じゃあね」と口をそろえて啼き、時は既に乗車客がなだれ込んでいるというのに、果敢にも逆らいつつしなやかな身のこなしで出て行った。残された一人がひとしきり手を振った後、所在なさ気に携帯を取り出した。
時々ちらりとこちらを見ている気がする。まさか私に気があるのか、と淡い幻想を抱きつつ、視線がその種の色でない事は薄々感じている。
新たに乗り込んできた上品そうな老婆、というには若いご婦人が、私の前――上のつり革を握り、上から厳しい視線を投げかけた。
座らせろと言うのか。しかしどう見ても足腰丈夫そうで健常なご婦人だ。どことなく傲慢そうな目をさりげなく紫のアイシャドウで演出している。そういう目を向けられると、どうも譲る席も無くなりそうな思いだが、仕方がないので「どうぞ」と言い立ち上がろうとすると、
「あたしそんなに婆さんじゃないわ、ふん」
と鼻を鳴らして隣の車両へ行ってしまった。何だって言うんだ。
仕方がないので座席の横に立てかけたカンバスを整えるフリをした。
「油臭い」と家に帰り着いたとたんにきり丸から苦情が出た。
「そうかぁ? 今日油絵やってたからな」
ちょっと気になったのでツナギの袖の匂いを嗅いでみるが、別に何ともない。
「自分じゃわかんなくなってんですよ。その恰好で電車載ってたんすか?」
「いつもそうしてるけどな。そういえば妙に視線を集めていた気がする」
「着替えてから帰ってきて下さいよ。オレの方がはずかしい」
作業着、そんなに変だろうか? 一見すると普通に灰色のツナギだし、二見しても絵の具で混沌状態に汚れている以外は普通のツナギだ。
「それにしても今日は特別強烈なニオイなんですけど、なんかあったんですか」
「さほど変わりない一日だったような。いや、そういえば生徒が階段でけつまずいて、持ってたパレットとかを頭からひっかぶったっけ」
「それですね。その後頭洗いました?」
「いや。面倒だったから……」
「風呂入って着替えてきて下さい」
きり丸がリビングのドアで通せんぼをするので、腹は減っているし本も読みたいしニュースも見たかったのだが、仕方なしに着替えを取ってきて風呂場へ向かった。
「うわ……」
誰もいないのに独り言を言ってしまった。風呂場の鏡に向かって。
生徒の絵の具を頭からかぶったあと、タオルで一応拭いたつもりだったんだが、全然駄目だったらしい。頭の脳天から前髪にかけて、真っ赤だった。タオルで無理矢理拭いたのがいけなかったのだろうか、染めたみたいな色付きだ。若いバンドマンとかでこういう頭の子いるな、という感じ。
さらに適当に拭いたためか、鼻っ面にも赤が乗っている。
今まで全く気がつかなかったが、これは油のニオイとも相まって危険な流血沙汰を連想させる。
なんできり丸はもっと早く言ってくれなかったんだ? そうすれば電車の中で女子高生に噂されたり巨体のおばちゃんの不審行動に出会ったり、ご婦人から睨まれたりしなくても良かった。
だが湯船に浸かりながら思い出した。そういえば今日絵の具を被ったのは、きり丸のクラスのホームルームも終わった後で家に帰るまできり丸とは会わなかった。
にしても大学の生徒達とは話もしたんだが。なんで何も言ってくれなかったのだ。善法寺とかあの辺。
「面白がられてたんじゃないっすかね」
というのがきり丸の見解だった。彼らがそういう事をするような連中には思えないが、しかし言わなかったという結果があるだけに、そういう連中だと認識せざるを得ない。
「今度からは警戒しよう」
「その前に時々は鏡でも見て身だしなみを考えて下さい」
きり丸がみそ汁をすすりつつ言った。
*注 現代パラレル
<鬼蜘蛛丸>
烏合の衆である。それがまた、見ていて面白い。
「じゃあ、ちょっと人数が多すぎるので」
集まった学生達を見渡して、傷だらけの顔をした男がにこやかに言った。「半分に分けて見学に行きましょうか。えーっと、何だったっけ君は」
「××大の、立花です」
「じゃあそこの代表は君で」
そういう風に手際よく学生を区分けして、一番派手な顔をした人間を前に出した。
大劇場のロビーいっぱいを賑やかに埋め尽くしていた学生達が、友人らを前に送り出していっそう賑やかになる。
「順番、じゃんけんでいいかな?」
申し分ない。意見を出す者は無く、それぞれ自分と同じ団体の代表に対して、「勝てよ」とか「がんばれー」といった類の歓声が飛ぶ。選び出された学生は、皆一様に舞台に関わる人間らしい、自信たっぷりの笑顔と大げさな身振りで意気込みを告げると、輪になって拳を突き出した。
たかが順番決めでこれほど盛り上がるものだろうかなぁ、と微笑ましく目を細めながら、鬼蜘蛛丸は騒ぎを見守った。
二ヶ月間のロングラン上演、現在ちょうど中日だ。役者も裏方も気が抜けるこの時期、学生達の熱心な目がちょっとした薬にでもなるだろうとプロデューサーが企画したイベントだった。
イベントといっても、大々的に募集したわけではなく、所属の役者や裏方が出身校や地元の学校、劇団を地道に営業して人数を集めた。やってる間は面倒な事になったぞと思っていたが、こうして実際に人が集まってくると楽しくなってくる。得に勉強熱心な学生の目は、おもしろい。こうして騒いでいる間も、どこかしこから入門編のような専門用語で会話している声が聞こえたり、教科書らしいのを取り出して予習を始めているものがいたりする。
そういうのを見ていると、数年前までは同じように勉強していた自分の姿が混じっているような気がして、鬼蜘蛛丸はまた妙な気持ちになった。もっとも彼は二年に上がって直ぐに辞めたので、非常に短い思い出なのだが。
<義丸>
裏で突然、バーン!という衝撃音が響いた。セットを殆ど置いていない状態のホールだからよく響く。若い衆はぎょっとして一瞬作業の手を止めた。
「落ちた!」
義丸の声がホール内に響いたかと思うと、耳元で一瞬爆音が鳴って、インカムに接続したイヤホンから同じ言葉が爆音で再生された。
「俺が落ちた!」
次にまた同じように続く。それに驚いて、数人が裏へ走った。
今回の催しではホールを広く取らなくて良い代わりに、幕を降ろすだけで隠せるようにしてある大賀足りな装置を取り付けてある。高さが二メートル近くある巨大な黒い箱で、さらにその上に巨大な肖像画を設置する。
一幕で不幸な女が死亡し、二幕ではその肖像画が女の死を表す象徴になるとともに、愛する女の不幸な死が主役の男の精神への大きな陰りとなるという暗喩として機能する。そういう筋書きのオペラだから全体的に薄暗い印象のある舞台装置で、仕込み中のスタッフにも何となく鬱々としなければいけないような感じがあった。
そういう雰囲気の中での事故。
「面倒なことしやがった」と遥か五メートル上のバトンの上で照明を吊っていた疾風が舌打ちをした。
実際誰も当人の心配はしていなかった。
幸い装置に重大な損傷は無く、落ちた当人も装置の下に思わず座り込んでしまっているだけだった。どう見ても平気そうだったが、足の裏が痛いと主張する。
「大丈夫だろ、多分」
「痺れるように痛いですよ」
「きっと気のせいだ」
「そりゃ蜻蛉さんに言わせりゃなんてこと無いでしょうけどねェ……」
片目の潰れた先輩の顔を見上げて、義丸は苦々しく笑った。昔作業中に落ちてきた照明のガラス片が刺さってできた傷だという。出役も裏方も怪我は珍しくない業界だが、蜻蛉のように片目を失っても未だ活動を続ける人間はそういない。
しかしそれほどの人物だけに、厳しい。
「いいから素早く作業に戻れ。お前のせいで押したぞ」
と時計を指さして言い放った。集まっていた下っ端集がぞろぞろと作業に戻り始める。
へっと義丸は鼻を鳴らして、痛いと主張していた両足で軽々と装置の上へ登った。
「終わったら病院行けよ」蜻蛉が下から声を掛けた。
「今日は何時に上がれるんですかね。どうせ深夜じゃ病院も閉まっちゃうでしょ」
「喋らずに手を動かせ。永遠に終わんねえぞ」
「はい」
短く歯切れ良く返事だけ返す。ちょっと騒ぎすぎたと反省した。にしても依然として足の裏は痛む。眼前の巨大な平面の美女が嘲笑っているような、或いは強烈な誘いを掛けているような、変な気分になった。
翌日の検査結果、足の骨にヒビが入っていた。ギブスと松葉杖と包帯をグルグル巻きにされた片足で一応現場に出てきたのだが、そんな状態で仕事が出来るわけがない。
「帰れ」と皆が口をそろえていった。
「労災を出して下さい」が彼の主張だった。
というか、それだけを言いに来たらしかった。舞監の第三協栄丸が「考えておく」とだけ言って追い返した。
「しかし義丸がいないと、困りますね」
一日の労働の後、飲み屋で遅めの夕食を取っていた時に、鬼蜘蛛丸が同情のためかそう発言した。実際、確かに義丸のいない穴は大きかったが、今回の仕込み自体がそう難しいものではなかかったために、仕事量の混乱は無かった。今日は予定していたよりも早く終わったぐらいだ。
「全治二週間だってよ。その間あいつどうやって飯食うんだろうな」
「仕事は出来ないが、無一文ってことは無いだろ」
「女に貢いで素寒貧になってるかもしれないぞ」
「逆だろ、逆。今頃数人が世話をしに押しかけてるんじゃねえか。ああ、羨ましい」
「野暮な推測だなぁ。一応お見舞いに行こうとか思わないのか」
「鬼さんは行くのかい」
「そりゃあ、行かないけど」
ははは、と場に笑いが起こった。明日も当日裏付きなど仕事のある面子もあるため、殆ど酒は入っていないが、一仕事終わったあとなだけに皆陽気だ。
だがその中で、下っ端の二人が微妙に青ざめて箸を動かしていた。
「俺らが見舞い行きますんで……」
航が引きつった笑いを浮かべて言った。もう飯を食う気にもならないとでも言いたげに、割り箸をきちんとそろえて盆の上に並べている。
隣に座った網問は黙々と箸を動かし続けていた。しょうが焼きが大量に盛られた白皿の端に転がされた、申し訳程度に色鮮やかなコーンの粒を拾い上げようとして何度も失敗した。
「あいつの事なんか心配するこたぁねえさ」
「お前等若いから経験ないかもしれないがな、このくらいの怪我はしょっちゅうだぞ」
「そうそう。そして怪我するやつが不注意なんだよ」
「いやそれが」
航が言いにくそうに口篭もって、横の網問の顔をちらりと見た。まだコーンを掴もうと奮闘しているふりを続けている。
「どうした?」
こうなれば誰だって様子がおかしいことに気がつく。誰かが問いかけた声を最後に、彼らのテーブルだけがシーンと静まりかえった。周囲の騒がしさと滑稽な対比となった。
静まった一瞬で、網問は何故だかコーンとの格闘もばかばかしくなった。
はは、と航が誤魔化したい笑い声を上げると、網問はいよいよばかばかしさに急き立てられた。
「ちょっと心当たりが」
「あるような、ないような……」
「あははは」ばかばかしさついでに、二人合わせて笑ってみたが、
「早く何とか言え」
疾風が苛立った風に言った。
これは逃げられまい。ちょっと冷やい汗がにじみ出した二人だったが、段々自責の念が混ざってきてしゅんとなった。
「多分俺らの責任なので……」
「何ィ?」鋭い声が飛ぶ。
「うわっ! いやべつにその、俺らの責任だと確証があるわけじゃないんですけども」
「いいからお前等、なにやらかしたんだ。何で今まで黙ってた!」
「仕事中のことじゃなかったので……あと義丸さんすげぇ平気そうだったから」
「仕事中じゃなかったら、いつの話なんだ?」
「三日ぐらい前の深夜です。暇で暇でしかたがないから遊べっていうメールが来て、遊んでたんですよ」
「遊んでたってお前、何して」
呆れたというか、何とも言えないような顔をして、第三協栄丸が言った。一応この集団の中では一番偉いのだが、こういう所は何とも素朴だ。
「おれが昼間に駄菓子屋で買ったピンポン球」
「航、お前なぁ……いい年して、何駄菓子屋、ピンポン球って」
「駄菓子は良いですよ! すごい!」
何故か網問の方がキレた。
「そもそも、駄菓子屋って今どきあるのか?」
「むちゃくちゃあるって! 舳丸の住んでる辺りが変なんだよ」
「いや、この時代に駄菓子屋が残ってるのは、お前等の住んでる街ぐらいだろ」
段々話は逸れていき、もう義丸の話なんかどうでも良くなってきてしまった。
こうして最後は、子供の頃の遊びと食事についての談義になり、よく判らないままにお開きになった。
「おい、航」
駅改札の付近で、皆と同じように帰ろうとしている所を鬼蜘蛛丸が呼び止めた。
「本当に見舞いに行くのか?」
「あっそういえば……あー……何か持って行った方がいいですかね?」
「そりゃ手ぶらで行くよりはいいだろ」
「でもおれ全然お金持ってないんですよ」
「網問も行くんだろう。二人で出せばいいじゃないか」
「あいつも別に金は持ってません。ってゆうか網問は行くのかな。鬼蜘蛛丸さん、いくらかカンパしてくれませんか?」
「お前な、金の前に言う事があるだろうが」
「はあ?」
「怪我の原因だ! さっき言いかけて止めただだろ」
「ああ!」
ひらめいた! という感じで、航が手を打った。
「結構どうでもいい話なんですけど――」
「はいはい」
「ピンポン球で遊んでたんですよ。それは言ったんだっけ? 言いましたよね、確か――」
少しだけの酒が逆に気分を良い感じに昂揚させているらしい。いつも大抵は笑っている男だが、それにしてもさっきと打って変わって機嫌が良い。
「いや、あんなに怒られるとは思って無くて。ほんと大した話じゃないんですよ。ピンポン球で遊んでて。近所の駄菓子屋で買ったんですけど」
「だから、それはもう聞いたから」
「そうでしたっけ。そのピンポン球で遊んでて、どうやって遊んでたかって言うと、最初はブランコ乗ったりとかしてたんですけど。あ、ピンポン球で遊びながらブランコ乗ってたんじゃないです。最初三人で酒飲んで、その後、あっ公園あるじゃん、ってなってですね」
話が進まない。酔っぱらいの相手はかくも面倒だったろうか。と考えたが、そもそも一回りぐらい年下の若者はいつもこんなモノだと直ぐに悟った。
「それで、今度は、あっおれピンポン球持ってる、ってなって投げました。むちゃくちゃ跳ねるんで、一回目むちゃくちゃ投げたら遠くに飛んで行っちゃって、網問が走って取りに行きました。それで戻ってきた網問が、いい遊びを思いついた! って言い出して、こう、締めに向かって垂直に投げるんです。そしたらむちゃくちゃ跳ねるから、高くに上がって、それを上手く拾うって遊びに変わって」
「うんうん」
段々相づちを打つのも面倒になってくる。疲労の溜まった身体にこれはきつい。
「そしたら、網問が最後投げたんですけど、あいつ馬鹿だから斜めに投げちゃって。あ、その公園って陸の上みたいな所にあったんです。ちょっと周りより高くなってて、公園の下は道路になってて。それで網問が馬鹿だから斜めに投げたのが超遠くに飛んでいって、道路に落ちたんです。でも道路に落ちてもどんどん跳ねてどっか行っちゃうよね、ってみんな気付いて、あ、やべぇ! って言って走り出したんですけど、それが飛んでいったのの一番近くにいたのが義丸さんだったんです」
「うん、わかった」
「だから網問はおれのせいで足怪我したのかもーとか言ってて、じゃあピンポン球出したおれもやばい」
「うんうん、わかった。それは判ったから、どうして義丸は怪我をしたんだ?」
「だから一番近くにいて、「うおぉーー!!」って言って飛びました」
「は?」
「公園の縁んところ、ガードレールみたいなの付いてたんですけど、飛び越えて」
「どのくらい」
「凄い助走付けてました」
「いや、高さ」
「三メートルぐらい」
昨日落っこちた、件の装置よりも高い。よく考えれば、あの高さから落ちて骨が折れるわけがないのだ。年中運動不足の人間ではない。何かあったに決まっている。
「暫くして戻ってきたら、足の裏が痛い痛いって言ってました。でもちゃんとピンポン球はキャッチしてたんですよ」
それにしても何と言おうか。もう呆れ返って言葉もない。
「それでその日はもう家帰ったんですけど」
一気に疲れた。鬼蜘蛛丸は、両肩の方から何か生温いモノがざーっと流れ落ちるような――多分それは疲労というものだろう――そして胃に流れ込んだかのような気がした。
「あの、それで見舞いに行くんで、何か差し入れを」
航がちゃっかりと両手を差し出す。
「無い」
「はい」
「金は無い」
「えー」
明日も朝早いのに一体なにをやっていたんだろう。鬼蜘蛛丸は間抜け極まりない部下達の私生活をのぞき見て、こっちが情けない気分になった。
ふらふらとした足取りで改札に向かう。
「じゃあおれも別に見舞い行かなくていいか」
そんな事を航が言っていたが、帰る方向も違ったので、もうあんまり記憶にない。